つまり、“速球派”でもあったわけですね。抜群の制球力を持ち合わせながら、ストレートは150キロに迫ろうかというスピード!なるほど、「9者連続奪三振」(日本タイ)「7年連続2ケタ勝利」だなんて、とてつもない記録を打ち立ててしまうのも頷けます。
その土橋さんが今年8月にお亡くなりになりました。突然の訃報に驚かれた関係者やファンも大勢いらっしゃったでしょう。一連のニュースの中で現役当時の貴重な映像や写真を拝むこともできたのですが、そこに背番号「21」をつけた、若き日の土橋さんの雄姿を目にされた方も結構いたと思います。
そこで今回は故人を偲ぶ意味も込めまして、土橋正幸投手から始まった、ファイターズではファンの間でも『エース番号』として名高い、背番号「21」プレーヤーについて振り返ってゆきます...
1958-1968 土橋正幸 (背番号「48」からの変更)
1969-1980 高橋直樹 (日本鋼管より新入団)
1981-1984 高橋里志 (広島カープより移籍)
1985-1986 三沢淳 (中日ドラゴンズより移籍)
1987-1997 西崎幸広 (愛知工大より新入団)
1998-2003 清水章夫 (近畿大より新入団)
≪北海道移転≫
2004- 武田久 (背番号「54」からの変更)
土橋さんが無四球試合歴代4位なら、あとを受け継いだのが同9位タイの記録を持っている、高橋直樹投手でした。1979年は年間11の無四球試合を達成した精密機械。フライヤーズ時代から含めると7度の2桁勝利をマークしています。タイガースにいたエモヤンを彷彿とさせるような眼鏡と髭が特徴的な投手だったのですが、投球ぶりは極めて繊細でした。
直樹さんと入れ代わる形で1981年に広島からやってきた、同姓の高橋里志さん。ともに移籍をしてきた江夏豊投手と、どうやら犬猿の仲だったらしく、当時の大沢啓二監督もずいぶん気を揉んでいたのだとか。しかし、ファイターズでは中継ぎ・または先発の谷間でと、大車輪の活躍をみせて第一期黄金時代の中心メンバーとなりました。1982年には防御率1.84でタイトルも獲得。
1987年からはふたたび大エースが誕生。東京ドーム本拠地時代に一世を風靡した、西崎幸広投手が「21」を継ぎます。ノーヒット・ノーランを達成するなど実力も超一流でしたが、同投手は若い女性ファンをも取り込んでしまうほどの、凄まじい人気を誇っていました。
‥入団後、数年間の酷使がたたってか、晩年はやや故障がちだったのが玉にキズでしたけれども、エースといえば、やはりこの方の印象が根強いです。
1998年は新人の清水章夫投手。西崎投手の退団直後で『ルーキーには多少重い番号なのでは‥』 と心配しておりましたが、彼に「21」を与えたのは訳があったのです。他球団との争奪戦の末に、ファイターズが“逆指名”までこぎ着けたという、いわば「三顧の礼」で清水投手を迎え入れたのですから。
1年目にいきなり故障を負ってしまって、しばらく低迷。3年目にようやく初勝利をあげ、お立ち合いで『もう勝てないんじゃないかと思った』 なんて、泣じゃくっていた姿が今でも忘れられませんね...
清水投手のあと、武田久投手の“抜擢”には驚きました。駒大時代は大エースとして活躍していましたが、プロ入り後は中継ぎでの起用で一貫していましたから。エースナンバーの系譜も北海道移転を機に途絶えたのか思いきや、これが大正解。あの体の小さな投手が長年にわたって「リリーフエース」として君臨し続けてくれることになるとは‥。偉大な先輩方に立派に顔向けできるほど、背番号を自分のものとしています。
駆け足で振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。錚々たる顔ぶれに、筆者も自然と力がこもりました(笑)。もっとも印象に残っている投手‥‥それは世代によって変わってくるのでしょう。ただ、「21」がファイターズにとって特別な番号であることが、これで少しでもご理解いただければ冥利に尽きます。
≪関連記事≫
◆ファイターズの、監督
◆背番号「11」物語
◆背番号「12」物語
◆背番号「19」物語