2010年07月31日

入来祐作 【闘志】

甲子園での伝統の一戦‥

背後を通る大暴投に激高したG・アリアスに、グラブを叩きつけて
立ち向かっていった姿を今でも良く覚えている。

あのケースは「逆ギレ」もいいところではあったが、打者に向かって
いく姿勢、投球スタイル‥ 常に 「真っ向勝負」

入来裕作 (いりき・ゆうさく)

野球も、その生き様においても少し不器用だった。逆に退場させ
られてしまったあの日の甲子園でのマウンドが象徴するように‥

それでも己が歩んできた道に悔いはない。全力で駆けぬけてきた
野球生活、ファイターズでの2年間‥


yusaku iriki
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巨人からファイターズにトレード移籍してきたのが2003年オフ。
北海道移転を翌年に控え、人気球団からの主力投手の加入は
補強の目玉でもあったが、この時点ですでに来オフ以降のメジ
ャー挑戦をほのめかし、周囲を混乱させた。

足の故障が完全に癒えてなかった移籍1年目は2勝止まり(4敗)
期待に応えることができなかったが、直球の威力を取り戻した
翌年は、ようやく巨人時代のような「らしい」投球を見せ始める。

入来特有のホップするストレートを武器に、中盤からローテー
ションの一角に加わると、崩壊状態だった先発陣の中において
エース級の安定感を誇った。

01年以来の規定投球回数に達し、防御率はリーグ9位の3.35。
これは自己最高だったが、打線の援護に恵まれないこともあって、
トータルでは6勝7敗に終わった。

この年の入来を象徴するような試合が好調だった夏場に2試合。
1試合目は7月17日の東北楽天戦(札幌ドーム)

8回2死まで圧巻の無安打ピッチングを披露。完封ペースできたが
自軍も無得点とあって、結局延長戦へ突入。

入来は10回まで投げ切って被安打1の9奪三振。四球もわずかに
3つとまとまっていた。延長に入ってからこの日最速の146キロを
計測するなど、ストレートの威力は最後まで衰えなかった。

勝ち投手にはなれなかったものの、チームはサヨナラ勝ちを収め、
お立ち台にも上がった。

2試合目は自身33回目の誕生日となった8月13日のホークス戦。
杉内俊哉とのしびれるような投手戦を制し、3年ぶりの完投勝利を、
完封で飾る。この年18勝の杉内に、パ・リーグの投手で投げ勝った
のはこの日までで入来祐作、ただ一人だけであった。


これらの活躍により球団は契約年数以後の残留も要請したが、
長年の夢であったメジャーへと飛び立っていった入来。退団して
からファイターズが常勝チームへと変貌していったのは、何とも
皮肉だった。

完全アウェーの甲子園で巨漢・アリアスに挑んでいった闘志
これこそが入来最大の持ち味であり、野球人生を支えてきた。

現在は横浜ベイスターズで打撃投手を務めている。プロ通算35勝を
あげた元剛腕投手の生きた球を打てる、横浜打撃陣は幸せだ。


※もっと×2!ファイターズの歴史と、このブログをファンの方に知ってもらわねば
なりません!どうぞ皆さまからの温かい『
一押し』を、よろしくお願いいたします。

2010年06月26日

マイケル中村 【江夏超えのストッパー】

ファイターズも勝ちゲームの最後を締める、ストッパーという任務を
数々の投手がこなしてきたが、『史上最高のストッパーは?』
問われたら、あなたはどの投手が思い浮かぶだろうか?

その圧倒的な存在感と名声から、1981年日本ハム球団になって初の
リーグ優勝に導いた優勝請負人・江夏豊の名を挙げる、ファンの方も
多いだろう。

しかし、数字だけを見ると2008年まで在籍していたので記憶にも新しい、
マイケル中村(M・中村)が『史上最高』の称号に、もっとも相応しい投手
なのかもしれない。江夏がファイターズに在籍していた1981年からの
3年間と、マイケルが守護神として君臨していた2006年からの3年間の
成績をここで比較してみる。


江夏豊 

【1981】 3勝6敗25S 防御率2.82
【1982】 8勝4敗29S 防御率1.98
【1983】 2勝4敗34S 防御率2.33

【通算】 13勝14敗91S  防御率2.38

マイケル中村   

【2006】 5勝1敗39S 防御率2.19 (39Sはリーグ新)
【2007】 1勝1敗34S 防御率2.16
【2008】 2勝2敗28S 防御率2.14

【通算】 8勝4敗101S 防御率2.16


江夏が在籍していた頃と現代とでは、試合数や1試合当たりのイニング
数の違いなどはあるものの、まず抑え投手として一番重要な部分である、
マイケルの「負け数」が少ないのは評価できる。

毎年2点強の安定した防御率を維持し、わずか3年間で101Sの荒稼ぎ。
ファイターズでマークした通算102Sは球団記録として残っている。


micheal
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06年からの球団史上初となったリーグ連覇に、守護神・マイケル中村の
存在なくしては成し得なかった。思えば当時、夜のスポーツニュースなど
ではファイターズが勝てばきまって最後の打者を打ち取り、派手なガッツ
ポーズを繰り返していた、マイケル中村の姿が良くブラウン管に映し出さ
れていたものだ。


ファイターズが『栄華』を誇った頃の象徴的な存在‥


昨年、最多セーブのタイトルを獲得した武田久の今シーズンの不調
ぶりを見ていれば、ストッパーとして毎年安定した数字を残し続ける
ことがどれだけ大変であることなのか、多少ご理解いただけるだろう。

連覇の功労者でもあるマイケルを2008年オフ、大型トレードによって
巨人に放出させてしまう球団の姿勢には、正直驚かされた。

セ・リーグの水が合わないのか、それともファイターズ時代の恋女房、
中嶋聡という存在があまりに大きかったのか‥。苦闘が続いている。


更にマイケル話は続きます

2010年01月01日

小笠原道大【ファイターズ版・ガッツ列伝】

守備で手痛いミスを連発してしまったこともあった・・
打撃はチャンスで勝負弱いと、酷評されることもあった・・
太陽のような存在だった選手を前に、影に隠れてしまう事もあった・・



だが、この男の存在なくしてファイターズの44年ぶり日本一は、成し
得なかった。対峙した投手を睨む、鋭い眼光・・高々と掲げたバット・・
そして、立派な髭を蓄えた男らしい風貌に【不言実行】、寡黙に己のス
タイルを貫いた。その姿はまさに【侍】の呼び名に相応しい。

侍・小笠原道大。ファイターズの侍から、いつしか日本の【サムライ】に
なった、ガッツの物語・・


        michihiro ogasawara
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あれは移転元年、札幌で行われた団結式の時だったか。雪の降りしきる
極寒の地で小笠原はファンに力強く、こう宣言していた。

『北海道を日本で一番、熱い大地にします』

野球とはかけ離れた情景に、もう20年以上も優勝から遠ざかったチーム
とあって、特に東京時代からの私のようなファンは、これも『リップサービス』
の一貫・・そう軽く聞き流してしまいそうな、微笑ましい一コマに過ぎなかった。少なくともあの日までは・・

『宣言』から3年後。まさか、こんなにも早く【有言実行】してくれるなんて、
あの時、誰が想像できただろうか。


マリナーズ・イチローが日本の最多安打記録、3085本に近づいてきた時、
従来の記録保持者、張本勲氏と良く比較されることがあった。打撃に関して
はイチローより、この小笠原の方が近い存在だったと、いえるかもしれない。
毎年3割を優に超す高打率、そして30本塁打以上の長打力・・。

左右に打ち分けることのできる確実性に、パンチ力も併せ持っては投手側
からみて、これほど恐ろしいバッターはいない。あくまで数字の上でだが全
盛時代の東映・張本をも彷彿とさせる、高次元の打撃力。

その絶頂期にいたのが2003年だった。打率.360、本塁打31、打点100。
得点圏打率.442、出塁率は驚異の.473。自らも出塁し、チャンスメーク、
塁上にランナーがいれば、それもキッチリ還す。こういった【無敵の構図】が
できあがっていた。 ⇒パ・リーグランキングへ

ただ、小笠原が打てども打てども・・。チームの白星には結びつかない。
筆者がファイターズを追いかけ、東京ドームに通いつめていた頃、まさに
そんな時だった。低迷を続けるチームの中で孤軍奮闘、一人黙々と打ち
続けていた小笠原は、全国区の選手が少ないファイターズ選手の中にお
いて、唯一といってもいいほどのスター選手、ファイターズの『誇り』だった。

そして、当時それほど目立たなかったが、こういった記録もある・・

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2009年09月21日

金村曉【初心忘れるべからず・・】

あの【舌禍】事件さえなければ・・・


北海道日本ハムファイターズの初代・エースとして、歴史に名を
刻んでいるはずだった。

4年連続二桁勝利最優秀防御率のタイトル獲得、北海道移転
後の札幌ドーム・チーム初の勝利投手・・・

燦然たる実績を残しながらこの男には今もどこか、『闇』が影を
落としてしまう。


少なくともファイターズファンの間では・・


金村曉
(かねむら・さとる)


s.kanemura
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入団4年目の98年、規定投球回数ギリギリながら2.73
最優秀防御率のタイトルを獲得。

翌年は連続完封を含む開幕から無傷の3連勝、月間MVP獲得。

若干22才、その抜群の安定感を誇ったエースの誕生にファンの
誰もが明るい未来を覚えた。

しかし、99・00年と春先に早々長期離脱を強いられるなど
幾度なく繰り返された故障・・

慢性的だった肩の故障が癒えた02年からは前述の4年連続で
二桁勝利を達成するなど、大黒柱としてチームを牽引した。


そして迎えたあの日・・
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2009年08月21日

正田樹【甲子園V左腕と群馬の英雄・・】

大会屈指の好左腕・菊池雄星擁する花巻東を中心に盛り上がりを
見せている夏の全国高校野球。


今からちょうど10年前・・
松坂フィーバーで湧いた前年に比べ、大物不在と呼ばれた99年の
夏の甲子園を湧かせてくれた一人の球児がいた。


春夏を通じて群馬勢、初の全国優勝をもたらした桐生第一高校の
エース・正田樹投手。
(しょうだ・いつき)

当時の正田は菊池ほどの注目度はなかったが初戦の比叡山戦で
1安打完封勝利を皮切りに、計6試合で完封。投げる度に評価を
上げていった長身サウスポーだった。


そんな一躍、時の人となった正田樹がその年のドラフトで日本ハムに
ドラフト1位で入団。


甲子園優勝投手で人気者・・
正田のファイターズ入りは久々に心躍らせてくれる気分だった。



         itsuki shoda
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しかし甲子園のV腕も初年度から活躍できるほどプロの舞台は
甘くない。

1年目は5試合に登板、2年目もわずか1試合に登板したのみで
勝ち負けはなし。

私が正田を初めて生で見たのはまだもがいていた、ちょうどこの頃。

2年目の2001年に仕事の為に向かったイースタンリーグ公式戦、
大田スタジアムでの巨人戦だった。

先発した正田はキレのいい球を放り巨人打線を抑え込んでいた姿に
『ファームで投げるレベルの投手じゃない』と、改めて好投手としての
素材の良さを、実感させられたものだ。


正田が【覚醒】したのはまさにその翌年、2002年。
プロ初勝利が忘れられない・・


99年夏の甲子園、優勝投手・正田樹の英雄列伝・・
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2009年07月25日

カルロス・ミラバル【始めと終わり、最悪・・真ん中良し!】

ファイターズの多田野数人が9回2死までノーヒットノーラン
ピッチングとゆう快投劇を演じたのが今月10日千葉ロッテ戦。

惜しくも大松に右前に安打を打たれ大記録達成はならなかったが
連敗中だったチームに勢いを呼び込む、大きな勝ち星となった。


その多田野よりも圧巻の投球を披露してくれた投手がいる。
今から7年前の開幕してまだ間もない4月、千葉での出来事。

あわや完全試合達成!

こんな一世一代の投球を展開したのがファイターズではもう見る
事の出来ない、最後の背番号【00】選手、C・ミラバルだった。
(カルロス・ミラバル)


            090725_113642.jpg      
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この日ミラバルは8回を投げ切り打者24人、安打・四死球・エラーに
よって許したランナーは一切なし。いわゆるパーフェクトにマリーンズ
打線を封じ込んでいた。

滅多にお目に掛かれない大記録を目前に急遽、某ラジオ局も千葉での
ロッテ戦へと放送を切り替えた。

私も固唾を飲んでラジオの前からミラバルの記録を願ったが・・


無情にも9回、先頭の代打・吉鶴憲治に安打を許して巨人の槇原寛己以来、
21世紀になってから初の完全試合達成とはならなかった。

しかし、気落ちする事もなく後続を断ちきって、見事1安打完封、
わずか80球の超省エネ投球で来日初の完投勝利をあげた。


2002年4月10日  千葉マリンスタジアム

−M

【勝】 ミラバル勝  【敗】 シコースキー1敗

【本塁打】 F クローマー


この02年はミラバルが来日して3年目、先発転向一年目の年だった。
『先発転向』・・その剛速球を生かしてクローザーとしてファイターズに
迎え入れられたミラバルだったが日本での始まりは最悪だった・・

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2009年07月04日

ライアン・グリン【交流戦・MVP男の栄光と苦悩・・】

この外国人投手もまた、観る者によって賛否両論、様々な意見が
飛び交ったものだが個人的に、結構好きな選手の一人だった。


昨年まで北海道日本ハムファイターズに在籍、2007年はリーグ
連覇にも貢献したR・グリン
(ライアン・グリン)


      ryan glynn
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とにかく『ハマった』時はもう相手が手の付けられないほど、
凄みのあるピッチングを展開する。

140キロ台後半のストレートはいかにも球筋が重そうで、
時折見せたサイドから放る変化球で相手の目先を変える。
打者からしたら相当やっかいな存在だろう。


そのグリンが一躍全国に名を知らしめたのが2年前の交流戦
とにかくこの時期のグリンは負ける気が、いやもっと大げさに言って
しまえばさほど打たれる気すらしなかった。

それほど、完膚なきまでにセの各球団の強打者連中を牛耳った。
結果、6試合に登板して勝負けなしの防御率は1.01

唯一、勝ちが付かなかった試合も9回2死まで投げて無失点。
味方が零封されて勝ちが付かなかったものでまさに非の打ちどころが
ない、完璧な内容で文句なしの交流戦MVP選出だった。


また同年のロッテと対戦したクライマックスシリーズでのグリンの
『熱投』が個人的に一番印象深い。


前日大敗を喫し、1勝1敗のタイに持ち込まれた第3戦。
先発したグリンは7回を5安打無失点ピッチングで勝利に貢献。

そして雌雄を決する第5戦ではダルビッシュの後を継いで志願の
中継ぎ登板。

前回の登板で95球を放ったグリンが中2日で自ら実践してくれた
勝利への執念と【For The Team】の精神。


グリンもまた、北の大地・北海道で大輪の花を咲かせた・・
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2009年06月16日

野口寿浩【もう一人の野村ID、門下生】

他球団から移籍してきた選手でもっともファイターズで野球を
『謳歌』したのは捕手・野口寿浩だったかもしれない。
(のぐち・としひろ)

ヤクルト時代は名捕手、古田敦也の影に隠れ、阪神移籍時には
矢野輝弘の控え捕手に甘んじている。


常に『2番手』捕手だった野口がファイターズに移籍してきて早々、
『1番手』として大活躍した。



       t.noguchi
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98年の開幕直後、城石憲之との交換トレードにより日本ハムに移籍。
開幕から正捕手を担ってきた田口昌徳の故障離脱で5月からマスクを
かぶり始める。


野口と言えば強肩
肩の強い捕手なら過去のファイターズにもたくさんいたが野口は
スローイングが実に綺麗で美しかった。

野口が移籍してきてからは相手チームにやられ放題だった盗塁も
随分と走られなくなった記憶がある。


しかし野口寿浩、最大の武器にして一番の特徴は強打
何といっても『打てる捕手』としてのイメージが強い。

パンチ力を兼ね備えたシュアなバッティングが持ち味で00年には
.298厘の高打率をマーク。
勝負強さも抜群で得点圏打率はリーグトップ。

なお、捕手でありながら意外に俊足で同年はリーグ1位タイの11個の
3塁打を記録した。


ここまで聞くと打てて、走れて、守れる。
それこそまるで『スーパーキャッチャー』のように聞こえてしまうが
【天は二物を与えず】とは良く言ったもの・・


インサイドワークにやや難があり、リード面で首脳陣から叱責される事も
しばしばだった。特に当時は捕手出身の上田利治監督だっただけに
尚更だったかもしれない。

それなら!と、ファイターズでの晩年、外野にも挑戦したが成績は
今ひとつパッとしなかった。

キャッチャーミットから外野用グラブに持ち替えた野口に先入観から
くるものなのか、どこかぎこちなくて似合わなかった。

なんだかんだ言って野口にはマスク姿で扇の要にどっかりと腰を据えて
いる姿が、一番シックリきていたように思う。



昨オフ、FA権を行使して阪神から横浜ベイスターズに移籍。
正捕手だった相川亮二の移籍によって野口の出場機会は増えてくる!
低迷するチームが立て直しを図るのにベテラン・野口寿浩の頭脳と
貴重な経験は必ず生きてくるはず!


このFA移籍は野口にとって間違いのない選択かと思われたが開幕から
の思わぬ不振により、新人・細山田武史にスタメンの座を奪われると共に
まさかのファームでの再調整を余儀なくされる事態に・・


しかし名将・野村克也、上田両監督の元で『捕手学』を叩き込まれ、
古田、矢野の『代役』を務めたほどの男がこのままで終わるはずがない。


在籍期間は短かったが攻守で輝きを放ってくれた日本ハムOB、
野口寿浩に【負けるな!】と、心からのエールを贈りたい。



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2009年05月09日

ファンは俺の宝・・【新庄剛志】

この男にはどれほどの勇気と感動を与えてもらっただろうか。
新庄剛志・・(ファイターズでの登録名はSHINJO)
『北海道日本ハムファイターズを変えた男』
これは決して大げさな言葉ではないと、個人的にそう思っている。


私は新庄の残してきた『台詞』の数々に涙すら浮かべる事もあった。
思えばファイターズ入団会見時、

『これからはメジャーでもない。セ・リーグでもない。パ・リーグです!』

こんな粋な台詞、中々言えるものじゃない。


生粋のパ・リーグ党の私にこの新庄の言葉は
【きっとこの男ならファイターズを変えてくれる】
そう思わずにはいられなかった。
パ・リーグに、そしてファイターズに明るい未来を覚えた。



        shinjo


新庄こそ本当の意味で、プロフェッショナルだったのかもしれない。
魅せる野球。常にファンの目を意識し、楽しませる。
なにげない外野飛球でも新庄ならあたかもファインプレーだったかの
ように魅せてしまう。
それでチョンボする事もあったがそこはご愛敬。
そんな姿も新庄なら絵になってしまうから不思議だ。


オールスターでの予告MVP、着ぐるみゴレンジャー、
幻のサヨナラ満塁本塁打等々・。


ファイターズでの『SHINJO』は壮大なパフォーマンスや言動で
たくさんの思い出があるが新庄のまるで野球スタイルそのものを
象徴しているかのような印象深い試合があった。


2005年6月16日。広島東洋カープとの交流戦。
観客もまばらだった札幌ドームのスタンドで日米通算200号本塁打
達成した際、こんなコメントを残していた。


【ファンがこんな少ない中で打つなんて・・
だからこそ今日観に来てくれたファンの為にも打ちたかった】


誰よりもファンを大切にしてきた新庄のこの言葉の中に全てが
凝縮されている気がした。


2006年、25年振りにリーグ優勝を果たし、ほとんどの選手が
初めて体験するあの日本シリーズの大舞台で新庄が日頃から言って
いた『野球を楽しむ』ことが出来なければあの歓喜の瞬間は訪れな
かったかもしれない。


浮足立ちやすい若手選手が多かった中で新庄の抜群の存在感はさぞ
大きかった事だろう。


【エピローグ】

現在は幅広い分野で活躍される新庄さん。
2004年北海道移転と同時にリニューアルされた現在使用中の
新ユニフォームが良く似合っていた。


またいつか野球界に携わってくれる時が訪れるのだろうか。
願わくばその時はファイターズで・・・
また北海道で夢と感動を与えて欲しい!


        夢は見るモノじゃなく叶えるモノ!

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2009年03月03日

ハムを愛したオバサマPower!【S.オバンドー】

今年加入したヒメネスの相性が『ヒメ様』になりそうなら
かつてファイターズの助っ人に『オバ様』なる外国人野手
がいた事はファンには記憶に新しいことだろう。



そう、99年途中にファイターズに入団し右の長距離砲として
一時代を築いたシャーマン・オバンドー選手。


パナマ出身で本職は外野手。右投右打。背番号は64(入団時)


        s.obando


個人的に右バッター限定ですれば日本ハム史上、1、2位を
争う優良助っ人外国人だったように思える。


長打力に確実性も併せ持ち2000年にはリーグ2位.332
高打率をマーク、この年は30100打点を達成した。


後年は故障に泣いたが今でも忘れ難く、鮮明に記憶に残っている
助っ人の一人に数えられる。


このオバンドー、2000年5月8日に驚異的な一打を放っていた。


オバンドーと言えば東京ドーム、外野スタンド上の看板に何度も
ぶち当て賞品・賞金を荒稼ぎ稼していた事でも有名だがこの日の
ホームランはそれより『難易度』は高いが賞金も何も出ない、
むしろ『被害』すら被ってしまった凄まじい一発・・・。


全盛時代だった鋭い振りのバッティングをオバンドーを知らない
人や既に見た事がある人でも今一度ご覧頂きたい!



     S.オバンドーの英雄列伝・・・続きを読む

2009年02月16日

北海道が大好きです!【横山道哉】

また違った意味で忘れられない試合がある。
いや、もっと正確にいうと忘れる事のできない『1球』があった。


2004年、この年始まったパ・リーグのプレーオフ
その1STは2位ライオンズと3位ファイターズが激突した。
1勝1敗で迎えた第3戦。


3−5。2点ビハインドで迎えた9回表。
途中出場の木元邦之が値千金の同点2ランをLの守護神、
豊田から放つ。土壇場での同点劇!


しかし喜んでいたのも束の間、その直後に西武・和田一浩
レフトスタンド上段まで運ぶサヨナラホームラン・・。
2004年、ファイターズの戦いは幕を閉じた。


今でも和田が描いたサヨナラホームランの弾道は脳裏に
媚びり付いているがその時マウンドにいたのは横浜から
移籍1年目・横山道哉だった。 (よこやま・ゆきや)


いかにも球筋が重そうな剛速球を投げ込みフォークボールを
得意としたピッチャー。
横山はこの年、故障離脱した抑えの伊藤剛に変わりシーズン
途中からストッパーに抜擢される。
2004年は28Sを挙げ見事、最多セーブのタイトルも獲得した。


そしてあのプレーオフ。
フォークボールだったろうか。やや甘めに入った変化球を
獅子の主砲に上手く運ばれた。まさに痛恨の1球・・。


でも私はこの男を恨む気にはなれなかった。
いや、嫌いにはなれなかったとゆう言い方が正しいだろうか。


横山道哉の英雄列伝・・

続きを読む

2009年02月13日

お前こそ真の『毎度』男だ!【島田一輝】

『毎度っ!』と言えば90年代後半にエースとして君臨した
岩本勉の代名詞だが私はもう一人、この男も毎度っ!な男に
相応しかったと思う。


男の名は島田一輝
(しまだ・かずてる)


千葉県立柏井高校から東京農大、社会人NTT関東を経て
95年にファイターズ入りした右投げ右打ちの外野手だ。


島田一輝の第一印象。

『心優しき力持ち』  ・・こんなところか。


184cmの長身、近くで見ると更にそれが大きく見える、
西武G・G佐藤をも彷彿とさせるような筋肉マンでもあった。


島田は遅咲きではあったが2000年にはレギュラーに定着し
一時は5番に座るなどビックバン打線の中核を担った時期もある。


ヒルマン政権になってからは主に代打の切り札的存在として
値千金の一打を数多く放ってきた。


この男、とにかく勝負強い!


常時出場していなかったにも関わらず2003年にはお立ち台を
年間10度も経験するといった驚異の離れ技を演じている。


この年、ファイターズの年間勝ち星は62。
少なくとも1/6は島田のバットが勝利に絡んでいた事になる。


島田は現レッドソックス・松坂大輔キラーとしても名を馳せた。

2003年、ヒルマン政権下になって初の公式戦。
対西武との開幕戦で松坂からレフトスタンドへ豪快に叩き込み、
新生ファイターズを幸先よく勝利に導いた事も印象に残る。


故障もあり実動年数は短かったがまさに記録より記憶に残る
そんな島田の野球人生だった。


現役を引退した2005年オフ、鎌ヶ谷のファン感謝デーで
島田さんを見つけた私がサインをお願いしてみたところ、
実に快く応じてくれた。


とても笑顔が素敵でファンに対しても礼儀正しかった
心優しき力持ち・・。


k.simada



現在は北海道日本ハムのスカウト活動をされている。

またいつか現場に戻ってきてもらい、第二の
『お立ち台男』育成に当たってもらいたいものだ。

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