2012年05月19日

広島発!日本ハムのヒロシです....

交流戦、楽しんでいますか?


普段あたることのないセ・リーグ球団との対戦!特に年に一度しか訪れない甲子園やマツダスタジアムといったビジターでの試合は新鮮に感じられますよね。打席時における投手の“メット姿”も見慣れてないせいか、なんとなく幼く見えてしまうのが不思議です(笑)


さて、幸先よくタイガース戦に連勝したファイターズ。次に対戦するのが広島東洋カープです。オフのテレビ番組で前ドラゴンズ監督の落合博満氏が『今年の広島は面白い』とおっしゃっていたのを良く覚えておりますが、19日現在では“指定席”の5位に収まってますね‥

力量はともかくとして、先発投手の頭数自体はたしかに豊富な印象を受けます。昨シーズン2ケタ勝利をあげたバリントン・前田健太という強大な柱が2本いますし、明大から新加入した野村祐輔のローテーション入りでさらに層を厚くさせました。

でも私が一番羨ましく感じているのはカープの“助っ投”。そのバリントンを含め、抑えのミコライオ、サファテと、3人が3人とも超A級の活躍をしています。全員がチームになくてはならない存在!これだけ優秀な外国人が揃うのも珍しいですよね。近年やたら好投手がカープに入団してくるのはスカウトをされている元FS戦士・シュールストロム氏のおかげなのでしょうか?だとしたらファイターズ球団が逃がした魚は大きかった....(苦笑)


と、前置きが長くなりました。これからは【交流戦特別企画】といたしまして、その球団にゆかりのある選手たちを取りあげていきます。今回は広島東洋カープ編!

1986年度セ・リーグの新人王を受賞した、長冨浩志投手。とにかく入団当初は球が速かったですよね。2桁勝利を3度も記録したほど投手が、投手王国を誇っていたカープでは先発3、4番手という位置づけでした。



nagatomi.hiroshi.jpg
1987カルビープロ野球チップス


1994年オフに木村拓也との交換トレードでファイターズに移籍。そのころは速球の威力にやや陰りが見え始めてきていましたが、フォームを変えて中継ぎとして活路を見いだしました。移籍した年にチーム初勝利をもたらしてくれたのも、ロングリリーフで力投した長冨投手。考えてみたら同時期ストッパーを務めていたのが金石昭人投手でしたので、ファイターズの勝ちパターンは【元広島リレー】だったのですね。

ホークスに移籍後はバッテリーを組んだ城島健司が全球スライダーを要求したという逸話もあるほど、華麗に技巧派投手へと転身していました。当時の王貞治監督にも結構重宝されていましたよね。 ※関連動画はコチラ!


ファイターズ時代は毎試合、なにか“辛そう”な表情をして投げていたのをよく覚えています。本人は実際そんなことなかったんでしょうけど(笑)。役回りは違えど3球団で主力としてマウンドに立ち続けた右腕、長冨ヒロシ投手でした...

通算成績 464試合 7777敗10S


※次回はDeNA編

2011年03月28日

金石昭人 【野球漫画の世界】

サヨナラ満塁本塁打の北川博敏やスレッジ、あるいはプロ初登板でノーヒット・ノーランの快投を演じた近藤真一も、まるで野球漫画の中の世界だったが、漫画家でもなかなか思いつかないような劇的野球を、かつて見たことがある。

 
真夏の倉敷、雨中のダイエーホークス戦。ファイターズ1点リードで最終回の守り。塁上にはすべての走者が埋まり、打席には強打者の秋山幸二。マウンド上は身長197センチの右腕、金石昭人がそびえ立っていた。カウントは2-3。次に投じる1球が恐らくこの試合の勝敗を大きく左右するのは間違いない。そう、あと一球‥

【1点リード、9回裏1死満塁、カウント2-3】

漫画でも十分な見せ場になる、このシチュエーション。しかし、現実にはまだ続きがあった。金石にふりかかった更なる試練‥

降りしきる雨が一段と強くなってきた。秋山の打席、フルカウントを迎えたところで審判団の協議により、試合が中断されたのだ。

ベンチからただ見つめるグラウンド。両軍ナイン、様々な思惑が交錯していたのは容易に想像できる。結局、中断時間は17分にも及んだ。この間、金石・秋山の「当事者」にはきっと何時間にも感じられたに違いない。それこそスポーツライターの山際淳司なら格好の餌となりそうな心理戦の展開、勝負の綾‥「17分間」

リリーフ投手はハートは実に繊細だ。中断中の間、金石は集中力を保ち続けていられたのか、よく我々が耳にする、いかにして「気持ちを切らさずにいたのか」一番気になる部分だ。さらには再開後にどんな球を放り、秋山幸二をどう打ち取り、試合に勝って終わらせる術。もう一球の失投も許されないこの難局。金石は何を考えていたのか‥


天の無情な演出。しかし、山際氏も思わず拍子抜けしそうなほど、金石は「」だった。

『別に、何も。余計なことを考え出すと悪い方にいっちゃうからね』

カウント2−3での投手・打者の精神的な優位さは五分五分とも訊くが、押し出しの恐れのある投手の方が幾分追い込まれている気分にもなるだろう。それでも金石は無心でいた。捕手・山下和彦の要求はスライダー。もう後戻りのできない「無」の金石が山下のミットを目がけて投げ込んだ!


「しまった」いかにもこんな心の中の声が聞こえてきそうな、秋山はスライダーを引っかけ、おあつらえ向きのセカンドゴロ、併殺。試合終了。ファイターズは1点差を守りきった。仮にホークスサイドの【あの中断がなかったら‥】これは言うまい。筋書きにはない野球漫画のような試合のなかで、金石は堂々と主役を張ってみせた。いや、飄々と‥の方が金石にはしっくりくるかもしれない。



※1995.8/3 対ホークス21回戦より 【参照】ガイドブック1996

(秘)金石VS東北楽天・松井稼頭央(西武時代2年目!)

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2010年10月23日

芝草宇宙 【生涯・シュート】

最近になって知ったことで、驚いたことがある。
芝草宇宙が帝京高時代からシュートを放っていたというのだ。

現代でも高校生でシュートを操る投手はあまり多くはないが、芝草はプロでも決め球としてきたシュートを軸に、1987年夏の甲子園でノーヒット・ノーランを快挙を成し遂げている。8月16日のことだった。

『あのシュートを高校生が打つのは容易じゃない』

これは対戦した東北高・若山監督の試合後のコメント。決して調子は良くはなかったという芝草は、制球が定まらず四球は8つを与え、球数は113球も要した。奪三振もわずか3。「ノーヒッター」としては、どこか少し異例とも思えた快投劇。ただひとつ云えることは、当時から打たせて取る投球術は持ち合わせていた‥ この数字に立証された、確かな事実のようである。


その年のオフ、ドラフト6位でファイターズに入団。奇しくも甲子園で快投を演じた同じ日に、対沖縄水産戦で見事な完封勝利をあげていた島田直也(同年ドラフト外入団)とともに「SSコンビ」と呼ばれ、当時話題になった。

長い2軍生活を経て、再び甲子園の輝きをみせてくれたのが入団4年目の1991年。4月24日の対ロッテ戦で、球団では1973年の新美敏以来となる「プロ初登板完封勝利」の離れ業を演じる。序盤、幾度もあったピンチを脱すると、その後は危なげない投球で最後まで投げきった。敵将・金田正一監督をもってして『よくここまで成長した』と投手出身の監督らしく、嬉しそうに芝草の「門出」を讃えている姿がとても印象的だった。

結局、この年は1勝のみで終えてしまったが、98年には1完封を含む3試合連続完投勝利をマーク。この年は規定投球回数にも達するなど、ガッチリとローテーションの一角を担っていた時期もあった。しかし、伝家の宝刀・シュートで凡打の山を築いていく投球スタイルをもっとも生かすことのできた「持ち場」は、むしろリリーフの時だったかもしれない。


NPB通算:430試合46勝56敗17S
h.shibakusa
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東京時代晩年、本格的に中継ぎに転向。北海道移転後にまたがって、4年連続50試合以上の登板を果たす。これは今季武田久に抜かれるまでの球団記録だった。時にはロング救援をこなし、抑え投手が不調ならクローザーも務めた。

当時血の気の多かったホークスの小久保や城島、または西武のA・カブレラといった強打者の懐を果敢に攻めいき、睨まれたら怯まず、逆に睨み返していたような強いハートも、終盤の火消し役に適任だった。

投壊に頭を悩ませていた時代、『いかに競った展開で芝草を投入できるか』ファイターズの勝ちパターンはこの一点だった。「ぶっちぎりの青春」のテーマ曲に乗せ、颯爽とマウンドまで駆けていく勇ましい姿に、頼もしさを覚えたファンも多いことだろう。

再び「甲子園のノーヒッター」として注目を集めたのが、同じく聖地で快挙を成し遂げた松坂大輔のデビュー戦。芝草との投げ合いとなったが、あえなくKO。この日ばかりはスターの引き立て役に回ってしまった。


故障なども重なり、2005年にファイターズを自由契約。ソフトバンク、台湾球界を経て2007年に現役引退。最近ではテレビ解説者としても活躍していた。画面を通じて古巣を想う気持ちが他の誰よりも伝わってきていた。

そして2011年‥

6年ぶりにファイターズの1軍投手コーチとして古巣に復帰することが決まった。投手王国再建に向けて、新任である芝草コーチの手腕にも注目が集まる。先発投手にもブルペン陣にも的確なアドバイスを送れる同コーチの存在は、投手陣達にとってきっと心強いものになるだろう。


※パ・リーグ5球団のストーブリーグ情報やドラフト情報などはコチラでもどうぞ!

2010年08月23日

上田佳範 【追憶の甲子園】

先日、某スポーツ雑誌をながめていたら、現役メジャーリーガーの
松井秀喜選手が星陵高校時代にもっとも影響を受けた投手として、
ファイターズ・ドラゴンズで活躍をした、上田佳範(うえだ・よしのり)
名を挙げているのをみて、少し驚いてしまった。


ゴジラも一目を置いた、「投手」 上田佳範‥


松商学園時代はエースとして1991年春センバツ準優勝、夏はベスト8。
なかでも四日市工業・井手元投手との延長戦での「激投」は高校野球
ファンの間で今なお、語り草となっている。

またイチロー・中村紀洋ら一流選手を多数輩出している「1973世代」の
代表格として、当時アイドル的な人気を誇っていたのが上田。

甲子園で投手・鈴木一朗にも投げ勝った、長野の英雄はその年の秋、
ドラフト1位でファイターズに入団。入団発表の席では「200勝宣言」を
していたが、入団早々にヒジを痛めてしまい、1軍での登板機会はなし。

そして2年目の1993年、高校時代から定評のある打撃を生かすために、
野手に転向した。


yoshinori ueda
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転機は4年目の1995年。上田利治氏が新監督に就任すると、若手の
井出竜也らとともに、積極的に起用され続けた。

当時、打撃に関してはまだ「未完成」で凡打を繰り返してしまったが、
随所で故郷の長野でプロ初本塁打を記録するなどといった、もって
生まれた「華」も感じさせてくれた。

1997年には広角打法を身につけ、打率3割をマーク。そして「元投手」
らしい、強肩を生かした外野守備は大いに戦力となって、レギュラーを
つかみかけた時期もあった。 が、それも長続きはしなかった。

春先は打撃好調も後半尻すぼみといった、好不調の波が激しい打撃が
ネックになってしまった。特にファイターズでの晩年は信じられないような
打撃不振に陥り、長い2軍生活も経験‥

対象的に甲子園では完璧に封じこんだイチローが、メジャーリーガー
としての道を歩み始めた。あの夏のことは、互いにもう振り返りたくは
ないという。同級生の輝かしい栄光を横目に上田とイチローとでは、
またまったく違った「意味」があることは、明白だ。


見え隠れする、互いのプライド‥


しかし、イチローにも負けていないものがあったとするならば、やはり
全盛時代に「鉄壁」を誇っていた外野守備。主にライトを守っていた
ニヒルな姿は、今でもファイターズファンの脳裏に焼き付いている。

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2010年07月25日

田口昌徳 【福岡の貴方に捧ぐ‥】

田口昌徳がホークス移籍後、確かあれは福岡では最初で最後と
なったお立ち台でのこと‥

こんなような言葉を口にしていたことがあった。
『今までこんなに多くの人に応援してもらったことがなかったので』

ただなんとなく、淋しさを感じた。当時、ファンの数では到底及ばな
かったものの、確かに彼は愛されていたのだ。


そう、たくさんのファイターズファンにも‥


田口のプロ入りは1992年、駒澤大学からドラフト4位で日本ハムに入団。
おとなしかったファイターズの選手の中において、入団当初から明朗だ
ったその「キャラ性」からきたのか、身長180センチ体重90キロは越そう
かという、その「巨漢」からきたものなのか‥ 『キングコング』の愛称で
ナインから親しまれていた。(ファンの間ではあまり浸透しなかったが)

入団4年目の1996年。上田利治体制になり、急速に若返り策が推し進め
られていた頃で、長年正捕手の座を務めていた田村藤夫がチームを去り、
レギュラーをつかんだ。


m.taguchi
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ファイターズでの晩年は「守備の人」的なイメージも強かった田口だが、
安定感には欠けたものの、一発長打の魅力を持つパワフルな打撃が
首脳陣の目に留まって、指名打者での出場機会もあった。

笑顔を絶やさず、いかなる時においても前向きに励まし続けることで
得た、投手陣からの厚い信頼‥ もともと定評のあったリード面に、
「的」が大きくて投げやすい側面もあったのか、他の捕手がマスクを
被った時と比べて好投を引き出すことも多かった。

主戦の関根裕之岩本勉を根気良くリードし、当時の「弱投」と呼ばれた
投手陣の屋台骨を支え、野口寿浩の加入や實松一成の台頭などでベン
チを温める機会が多くなったファイターズでの晩年も、彼らが不振に陥れ
ば代わりに出場し、チームに「勇気」と「元気」を注入した。

1998年、岩本の快投をアシストした「開幕完封」も印象深いが、なかでも
「らしかった」試合が2001年5月1日の大阪近鉄戦。

この日1軍に上がったばかりの田口は不振の野口に代わって即スタメン。
1−0でファイターズが辛勝したこの試合で、先発の金村暁の8回無失点
投球を「演出」した田口の好リードが断然光っていた。


翌2002年、正捕手の城島健司を故障で欠いたホークスから白羽の矢が
立ち、シーズン途中に移籍。ホークスでも後輩の城島を立てている姿を
良く見かけた。

自らの置かれている立場、与えられた「持ち場」の中で献身的にチームに
貢献しようとする姿勢は福岡に移っても変わらず、好意的だった。

現在は2軍のバッテリーコーチを務め、今やすっかり「福岡の人」となって
いるが、自らが「主役」となって輝いていた東京や鎌ヶ谷での日々を誇りに
後進の指導に当たっていてくれたなら、ファイターズファンとしても嬉しい。


※もっと×2!ファイターズの歴史と、このブログをファンの方に知ってもらわねば
なりません!どうぞ皆さまからの温かい『
一押し』を、よろしくお願いいたします。

2010年06月13日

高橋憲幸 【悲劇のサウスポー】

ファイターズにとって1997年は「摩訶不思議」なシーズン序盤戦だった。
開幕からいきなり6連敗を喫して、リーグで10敗一番乗りしたかと思えば、
4月20日からは逆に7連勝を飾って、10勝もリーグで一番乗りをするという、波乱万丈の幕開け。

しかも、この連勝期間中にはパ・リーグでは史上初となる、同一カードに
よる「サヨナラ3連勝」が含まれていた。22日からの本拠地でのホークス
3連戦はすべてファイターズのサヨナラ勝利によるもの。

まず初戦を伏兵・藤島誠剛のサヨナラ2ランでモノにすれば、2戦目は
延長11回に田口昌徳が左前へサヨナラ安打。3戦目も延長10回、一死
満塁から、この年移籍してきたばかりの落合博満が放った3塁ゴロを
ホークスの三塁手がまさかの、まさかのトンネル!これで労せずして
3塁走者が生還し、神がかり的な奇跡のサヨナラ3連勝となった。


このうち2勝を挙げて「トリプル・サヨナラ」を演出、大貢献したのが当時
ルーキーだった左腕・高橋憲幸 (たかはし・のりゆき)


       N.takahashi
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初戦は2回2/3を、3戦目は3番手として登板し、3回を無安打無失点投球。
完璧な火消しぶりで、終盤の逆転劇を呼び込んでいる。地味ながらもこの
3連戦「投」のMVPは紛れもなく、高橋憲だった。

直球は140キロに満たないながらも、左打者には絶大な威力を発揮した
落差の大きい「スクリューボール」を軸に、00年代前半まで貴重な左の
セットアッパーとして活躍。

特に下柳剛の先発転向後は「左殺し」に、高橋憲の名は欠かせなかった。
ヒルマン政権後も重宝され続けたが、あの「事故」でその後の野球人生を
一変させてしまった...

04年、自転車から転倒。左頬骨骨折と左肩鎖骨脱臼の重傷を負う。
とはいえ、以後その名がフッツリと聞かれなくなってしまうことになる
なんて、誰が予想できただろうか。

事故直前の4月16日からのマリーンズ3連戦では2ホールド。李には
伝家の宝刀「スクリュー」で三振に斬ってとるなど、好調を維持して
いただけに本人の不注意とはいえ、何とも悔やまれる。


あの事故さえなければ---


左殺しのスペシャリストとして、近年の常勝ファイターズに名を連ねて
いたことだろう。現在は社会人時代の古巣・日本石油で後進の指導に
当たっている。


≪試合≫272(すべてリリーフ) ≪勝利≫9 ≪敗戦≫10 ≪防御率≫3.94


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2010年04月10日

西浦克拓 【煌めき‥】

人は 「落合博満からポジションを奪った男」 と、
そう彼のことを呼ぶ。

しかし、彼にとっての本当の「敵」は落合ではなく、
自分自身だったのかもしれない‥


西浦克拓 (にしうら・かつひろ)

1992年、大阪・上宮高校からドラフト5位でファイターズに入団。
大型内野手として毎年のように期待をかけられていたが芽が出ず、
1軍初出場は3年目の95年。ちょうどこの年に上田利治が監督に
就任し、チーム改革を推し進めていた時期とも重なって、西浦にも
明るい光が差し始めてきていた。

しかし、95年からの2年間でトータル17打数ノーヒットと結果を残す
ことができず、積極的に起用されていた同世代の「上田チルドレン」、
上田佳範井出竜也らに大きく水をあけられていた。

埋もれかけていた才能をようやく開花させたのが5年目の97年。
この年に20本でイースタン・本塁打王に輝くと、ペナント終盤の9月に
1軍昇格。故障で戦線から離れていた落合を尻目に一塁に定着すると、
ホークス・武田一浩から放ったプロ初本塁打を皮きりに、そのまま閉幕
までの約2週間で一気に4本のアーチを量産し、周囲を驚かせた。


     katsuhiro nishiura
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そして、「覚醒」 の翌98年‥

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2010年02月27日

酒井光次郎 【英雄・外伝】

『西武超特急』  

1990年‥ 西武ライオンズのシーズン序盤の快進撃は凄まじかった。
40試合を消化して30勝9敗1分。6月2日の時点で早くも貯金は21を
数え、2位以下を大きく引き離して独走態勢を固めていた。

しかし、長いペナントレース‥。 良い時期ばかりは続かない。パ・リーグ
他5球団がまったく付けいる隙のなかった西武でも、この直後に8連敗を
喫している。

この年、唯一といってもいい、西武が見せた「隙」にファイターズも連勝を
飾って、独走阻止に「貢献」していた。先陣を切ったのが当時のファイター
ズの新人・酒井光次郎の快投によるもので、雄姿を今でも覚えている。


         mitsujiro sakai
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◆ 6月13日 対西武ライオンズ8回戦 西武球場 ◆


許したヒットはわずかに3本、無四球。この日冴えた打者の手元で伸びる
直球に緩いカーブを軸として、強打のライオンズ打線を翻弄。デストラー
のソロ本塁打による1失点のみで、悠々と完投で4勝目を飾っている。

「直球」と言っても、球速はせいぜい130キロそこそこ。その決して速い
とは呼べないストレートを、いかに速くみせるための、得意としていたス
ローカーブとのコンビネーション‥ 緩急を効かした投球が絶妙だった。

持ち味を存分に引き出し、酒井の専属捕手的役割を担っていたのが
当時、控えの捕手だった若菜嘉晴。相性の良さを買われた、このバッ
テリーは若菜が引退するまで、コンビは継続された。


4月末の完投で飾ったプロ初勝利で勢いに乗り、ルーキーながらローテ
ーションの一角に加わって二桁、10勝をマーク(10敗)。防御率3.46で
パ・リーグでも7位にランクする、好成績を残した。(完封勝利3はリーグ最多)

本来なら新人王の有力候補になっていてもおかしくない数字を残して
いたが、こればかりは運と「巡り合わせ」によるものが大きく左右する。

酒井が辿ってきた球歴は、この「巡り合わせ」によるツキに、どこか
見放されている感もあった‥

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2010年01月31日

島崎毅【新進気鋭】

今シーズンから北海道日本ハムの1軍投手コーチに就任した島ア毅
現役時代は実働期間こそ短かったが、当時の守護神を担っていた金石
昭人
に繋ぐまでのセットアッパーとして活躍。

数字には表れにくい中継ぎ投手の価値と評価を見直そうと、1996年
から新設された最優秀中継ぎ投手賞(現・最多ホールド)その初代タイ
トルホルダーに輝いたのが、この島アだった。

スリークウォーターから投げ込まれる速球、左右にカーブ・シュートを
散らして、得意としていたパームボールで打者を翻弄。通算の防御率、
3.09が示しているように、その安定度は当時のファイターズ投手陣の
中においても、際立つ存在だった。


      takeshi shimazaki
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ファイターズ入団から3年間、1軍での勝ち星がなかった島アが95年、
上田新体制になると中継ぎとして活路を見出し、9勝3Sをマーク。タイ
トルを獲得した翌96年はオールスターにも選出され、勝利投手になる
など一躍スターダムにのし上がった。

現在のように確固たる分業制は敷いておらず、勝ちゲームはもちろん、
同点の場面、あるいは僅差ならリードされている場面からでも登場し、
時に2〜3イニングのロング救援をこなすことも、ざらだった。

結果、95年からの3年間はトータル154試合、273イニングも放った。
これは現在、クローザーとして活躍中の武田久が中継ぎ時代の06年
からの3年間に投げた217回1/3イニングをはるかに上回る。いかに、
この3年間で島アが良く投げていたのかが、分かる数字だ。


やはり、その代償は大きかったのか‥


98年途中、好調だった夏場に突然、腰を痛め長期離脱。その年の
オフ、中日へまさかのトレード‥。事情は色々あるのだろうが、1ファ
ンから見ていて故障した島崎をまるで『お払い箱』のように放り出して
しまった、球団の対応にはショックだった。


しかし!勝っても負けても、いつも潔かった島ア‥


気持ちの切り替えは早かった。まったく根に持つような素振りも見せず
ファイターズの2軍投手コーチとして2002年から『カムバック』してきて
いる。  

2010年は加藤武治木田優夫らの加入で中継ぎ陣は厚みを増した。
梨田昌孝監督も中継ぎ以降のピッチングスタッフには自信があるような
言葉も口にしていた。その強力ブルペン陣を束ねる、新任の島ア投手
コーチ。

まだ42歳と若く、選手の良き『兄貴分』としてフレッシュな指導を期待
したい。社会人時代にゆかりのある北の大地・北海道で島アの新たな
挑戦が始まった。


◆いよいよ球春到来☆12球団キャンプ情報はコチラでもどうぞ!

※記事タイトルは文字化け防止の為、『島崎』と表記。正確には島です。
※社会人時代はNTT北海道に所属。

2010年01月30日

関根裕之【不撓不屈】

小林繁1軍投手コーチの急逝‥


キャンプインも間近に迫った突然の悲報に、驚かされた。ここでは
あえてそれに触れなかった。いつまでも悲しみに暮れてるわけにも
いかない。こんな時だからこそ‥前だけを見据えていきたい。


島ア毅関根裕之といえば浮き沈みが激しい、AクラスとBクラスを行き来し
ていた時代の90年代後半の主力投手で、筆者が一番熱を上げてスタジアムに足を運んでいた頃の『青春時代』とも重なり、印象は強い。

この両コーチは現役時代、どんな選手だったのか。エピソードも交えながら
振りかえっていきたいと思う。今回はまず、2軍投手コーチに就任した関根
裕之氏の足跡をから辿ってみよう。


       hiroyuki sekine
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『プロ野球改革元年』

FA制度が導入され、上位指名選手に限り『逆指名』が認められるように
なった1993年オフ。その年にファイターズを逆指名した選手、第1号が
東北福祉大の関根だった。140キロ台後半の直球と切れ味鋭いフォーク
ボールを武器にした本格派右腕。ファイターズではもちろん、即戦力として
期待されていた。 

その期待にそぐわぬ、評価が高かった前評判通りのピッチングを、プロの
舞台でもいきなり見せつけてくれた。

初登板を無失点デビューで飾ると、パ・リーグ新人一番乗りとなるプロ初
勝利をあげた試合が、鮮烈だった。4月20日の東京ドーム、対西武戦。

試合は3−3の緊迫した展開で終盤戦へ突入。この局面で内山正博
後を受け、4番手として登板。3回2/3を投げ被安打1、四球1と完璧に
西武打線を封じ、チームのサヨナラ勝ちをお膳立てしている。

130キロ台の高速フォークを軸に奪三振5も断然光り、大沢監督も『いい
球放る』と絶賛。9回に唯一訪れた1死3塁のピンチも『野球で動揺したこ
とがない』という、強心臓ぶりでなんなく乗りきった。5月のダイエー戦では
奪三振12で堂々の完投勝利も飾り、4万の大観衆を酔わせている。

早くも新人王候補にも挙がり、関根の前途は有望‥誰の目にもそう映った。

しかし中盤戦以降、プッツリとその姿を消してしまうことになるとは‥

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2010年01月23日

今関勝【仮面をかぶった剛腕】

今シーズン1軍定着を狙う、中田翔が干支にちなんだ虎柄ヘアにしてい
たなんてことで、最近チョットした話題になっていたが、正直あれはどう
なんだろう。まぁ「本業」さえ、しっかりとこなしてくれれば、彼もまだオシ
ャレには気を配りたい、二十歳の若者のわけだし、髪型もオフシーズン
ぐらい‥と大目に見てあげたいところではあるが、筆者のような年寄り
から見て、はたしてあのヘアがカッコイイと呼べるのかどうかは「?」


今回は「髪型」にも纏わった、ある選手の英雄列伝をお届けしたい。
あの男は、『スキンヘッド』が良く似合っていた‥


ファイターズのスキンヘッドといえば、森本稀哲N・ウィルソン、古くは
広瀬哲朗なんかを思い浮かべる人も多いだろう。それともう一人‥

90年代後半、『ファイ投』を支えた、ツルツル頭の愛すべきキャラがいた
ことを、皆さま覚えていらっしゃるだろうか?

1992年、NTT東京からファイターズにドラフト3位で入団。オールスター
戦にも出場、通算26の勝ち星を積み上げた今関勝(いまぜき・まさる)


     masaru imazeki
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あれは1年目のキャンプの時だったか。球の出所がみづらいフォームから
投げ込まれるキレの良い速球に、当時臨時コーチとして沖縄に訪れていた
江夏豊氏が今関の躍動感ある投球に、ご執心だったとも聞く。

しかし、課題はコントロールにあった。球威・スピードは申し分ないが、制球
難から自滅を繰り返す「悪癖」があっては、なかなか1軍には定着できず、
1年目はわずか1試合のみの登板。(93.4/14福岡ダイエー戦)

期待された2年目は春先の4月に、早々と完投でプロ初勝利を飾り、その
後の躍進が期待されたが、この年も制球難を克服できずじまいで、結局
この1勝のみに終わってしまった。


そして今関に『変化』が表れはじめたのは、3年目の1995年‥


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2010年01月18日

五十嵐信一【名脇役】

田中賢介の『けんすけコール』はファイターズファンの間でも、お馴染み
だが90年代初頭頃から、こんなコールもスタンドから湧きおこっていた。


『しんちゃ〜ん』


「しんちゃん」とは誰のことかというと、1981年の日本シリーズ第6戦‥
巨人が日本一を決めた試合で、マウンド上の江川卓が最後の打者を力
ないピッチャーフライに打ち取った、あの歓喜の光景を目にしたことある
ファンも多いだろう。その時の最後のバッターだった「しんちゃん」‥

またコアな日ハムファンの間では『応援歌がカッコイイ』と、もっぱらの
評判だった、あの「しんちゃん」‥

これで多少ピンときた方もいただろうか。1978年から1996年までファ
イターズに在籍、現二軍監督・五十嵐信一(いがらし・しんいち)


      igarashi shinichi
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五十嵐のファイターズ一筋、19年のプロ生活はほとんどが控えだった。
ただ入団時の二塁に始まり、後年は外野のポジションにも就いたりと、
内外野を守れるユーティーリティプレーヤーとして、1軍に欠かせない
戦力、またその都度、就任していた監督から重宝される存在だった。

特に「相性」が良かったのは1992年の土橋監督時代だろうか。もともと
バッティングにもしぶとさはあったが、この年は103試合に出場。規定打
席には到達しなかったのものの.292の高打率をマーク。準レギュラー
として活躍した。

高田監督時代には代打サヨナラホームランなんて、一見地味な男がド
派手に決めてくれたこともあった。(1985.10/9 南海戦)

現役晩年は「左キラー」として相手が左投手の時はスタメンに名を連ね、
また「代打の切り札」として、一振りにかける集中力もみせてくれた。


そんな『しんちゃん』が久々に現場に戻ってくる!


2010年からファイターズの2軍監督に就任することになった。自身も現役
時代は控えとしてベンチを温めている時間の方が長かった、苦労人だけに
下でくすぶっているベテラン選手や伸び悩む若手選手の気持ちは痛いほど
わかるだろう。1軍への戦力供給源としてはもちろんだが、選手にも希望の
灯を、ともし続けてやってほしい。


※プロ野球、自主トレ情報やストーブリーグ情報はでもコチラどうぞ!

参考資料(?)オマケ動画付き★

2009年12月04日

大島康徳【代打の神髄】

『代打の神様』

こんな呼び方をされる、プレーヤーがいる。阪神タイガースの選手で
よく用いられることが多く、川藤幸三真弓明信八木裕・最近で言え
桧山進次郎といった辺りが、【神様】な存在になるのだろうか。

試合を決める、または決めることのできる『ここぞ』の場面で登場して
くる、最後のカード・またはとっておきの切り札・・

【役者】が打席に立つだけでスタジアムの雰囲気をも一変させてしまう、
そんな独特なオーラを備え持つ、『一振り』に賭けた男たち・・


日本シリーズなどで触れられることも多かったが、今年のファイターズ
は代打陣の成績がよく、坪井智哉稲田直人ら軒並み好成績を残した。

結果を残してきた彼らですら、【神様】の域までには達していない。無論、
スタメンで出場する機会が結構あったことによるもので、その神様の存在
意義と、どこか少し『ズレ』が生じてしまう。神様は、やはり『打つ専門』
なくてはならないのだ。


かつて、ファイターズにも【神様】がいた。


大島康徳 (おおしま・やすのり)


通算代打本塁打記録、日本歴代2位の20本。セ・パ両リーグで活躍し、
通算2204安打を記録した大打者だ。 ⇒パ・リーグランキングへ


大島康徳―負けちたまるか!反骨男 (名球会comics (5))

大島康徳―負けちたまるか!反骨男
(名球会comics (5))

  • 作者: 江本 正記
  • 出版社/メーカー: ぎょうせい
  • 発売日: 1992/02
  • メディア: 単行本

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37歳の時、ドラゴンズより移籍。『やれても2、3年・・』が大方の見解
だったがファイターズには7年間在籍、44歳まで現役生活を続けた。
トレードによって選手寿命が延びた、好例と言えるだろう。

その間、通算2000本安打1000打点達成など記録ラッシュとなった
が、最晩年は『一振り稼業』で現役生活をまっとうした。

93年は47試合出場で、47打席。つまりオール代打!
(42打数11安打.5四球.打率.262.本塁打0.打点8)

年齢を感じさせない、力強いスイングから右に左へと放たれる打球に、
勝負強い打撃で東京ドームは何度も大歓声に包まれた。

現役最終年。1994年5月4日のホームランは特にドラマチックだった。
西武球場での対ライオンズ戦。3−5で迎えた、8回表2死満塁の局面。
このチャンスで登場したのが、代打の切り札・大島康徳。

L・新谷博の外角直球を逆らわずに右方向へ。右翼芝生席に突き刺す、
技ありの逆転グランドスラム!43歳で放った満塁弾は史上最年長での
記録達成となった。

この日の当時・ファイターズ監督であった、大沢啓二氏のコメントが・・

『それにしても、大島は野球選手の鏡だねぇ・・』

この言葉の中に大島の野球に対する姿勢、人生そのものが凝縮されて
いるようで、とても印象深いものだった。


そして・・

大島康徳、現役ラストゲーム。9月29日、ドームでの千葉ロッテ戦。
スタメンDHで出場すると、伊良部秀輝から4の2。マルチ安打で有終
の美を飾った。最後のセレモニーで裏方やスタッフに真っ先に感謝の
意を表した大島・・。最後まで大島らしく、どこまでも『野球選手の鏡』
を貫き通した。


≪あとがき≫

2000年から3年間に渡る監督生活では、3度の退場処分を喰らう
など熱血漢ぶり?を披露したが、上位進出はならなかった。

しかし、2006年のWBC第1回大会、日本代表の打撃コーチを務め、
世界一に貢献。久々に持ち前の底抜けに明るい笑顔を見た気がした。
そんな大島も、早いもので2010年に還暦を迎える・・

※大島康徳公式ブログ:大島です。
※ストーブリーグ情報や契約更改情報はコチラでもどうぞ!

2009年10月26日

ナイジェル・ウィルソン【真夏の夜の夢・・】

球史に名を残した、日本ハムの外国人・・

過去に王貞治R・バースら、偉大なアーチスト達が名を連ねる
4打席連続本塁打

この大記録に元日本ハムの外国人助っ人の名が、刻まれている。


ナイジェル・エドワード・ウィルソン
(Nigel Edward Wilson)


   Nigel Edward Wilson
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97年6月21日の近鉄戦。当時できたばかりの大阪ドームに集まった
関西の野球ファンが、ウィルソンの『驚弾』連発に度肝を抜いた。

4回、B・ミラッキからライトスタンドに豪快に叩きこめば、立て続けに
6回、7回とメジャーでも活躍したことのある大塚昌則から連続アーチ
を掛ける。

そして極めつけは9回。赤堀元之からライトにホームランを放ち、
これで日本タイ記録の4打席連続本塁打。間に四死球を挟まない
『4連弾』はウィルソンと王貞治だけ。併せて初回に放った安打を
含め、塁打数【17】はパ・リーグ新記録となった。


記録づくめだった1日・・



日本野球に順応するまでの時間は掛かったが、同じ年に入団して
きた落合博満を師に仰ぎ、次第に打撃開眼していく。

結局その年は4打席連続本塁打もきいて37本塁打で本塁打王
タイトルを獲得。翌年も本塁打・打点の2冠王を獲得し、これで
来日から2年連続本塁打王となり、外国人選手としては史上初の
快挙を達成した。

またビックバン打線と呼ばれた2000年頃。S・オバンドーと形成
された左右の強打者同士の外国人コンビは今もなお、日本ハム
史上、『最強』とも称されている。

明るいキャラクターも手伝ってファンからもナインからも慕われた、
記録にも記憶に残る、優良助っ人。


そんなハムファンから愛されたウィルソンが熱狂的でしられる
北九州のファンをも味方につけ、【世界の王】に歯痒い思いを
させてしまった試合がある・・


N・ウィルソンの英雄列伝・・・

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2009年08月13日

白井一幸【ドラマティックにサヨナラ☆】

日本ハムファイターズに在籍した歴代の選手の中でベストナインを
個人的に選出するとしたら、セカンド部門は攻守において輝きを放ち、
現在も活躍中の田中賢介を選ぶだろう。

しかしベストナインではなくゴールデングラブ賞とゆう括りで選ぶと
したら私はこのOBを推すかもしれない。


白井一幸
(しらい・かずゆき)

1994年にはリーグ記録となる、二塁手連続守備機会無失策記録545
守備率は驚異の.997を記録するなど長きに渡り、セカンドの名手として
鳴らした。

軽快で華麗なグラブ裁き、球際の強さ・・

二塁守備は当時のゴールデングラブの常連、西武・辻発彦に勝るとも
劣らずの名人芸で、まさに絶品だった。


白井は1983年、駒澤大からドラフト1位でファイターズに入団。
右投両打ち。背番号は『

入団時は右打ちであったが持ち前の俊足を生かすために2年目から
スイッチヒッターに転向。

打者として87年には左右両打席本塁打をマーク、91年には最高出塁率
のタイトルを獲得するなどシュアな打撃でチームに貢献してきた白井だが
やはり『守備の人』としてのイメージが強い。


そんな白井がバッティングで派手に決めてくれた試合・・

未だファイターズファンの間でも語り草になっている、伝説となった
試合の殊勲者になったことがある・・


セカンドの名手・白井一幸の英雄列伝・・・

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2009年07月11日

河野博文【ONからのラブコール・・】

前巨人軍監督・長嶋茂雄氏が投手交代を告げる際、審判に

『ピッチャー、ゲンチャン!』

なんてコールしていた野球ファンの間では有名なエピソード・・


この『ゲンチャン』とは日本ハム・巨人などで活躍した左腕投手、
河野博文のことを指している。(こうの・ひろふみ)


ニックネームの由来は日本ハム時代からチームメイトにそのいかにも
『北京原人』に似た、いかつい風貌からネーミングされたらしいのだが
はたしてご本人はそう呼ばれていたことにどう感じていたのだろうか。


河野は84年、駒澤大からD1位でファイターズに入団。背番号は『18
1年目から先発ローテに食い込み、8勝をマーク。(13敗)
体の乗った左腕から繰り出す、ズシリと重そうなストレートが特徴的。


2年目以降は低迷するも入団4年目の88年には防御率2.38
好成績でリーグ第一位。初のタイトルを獲得する。


この年の成績は、6勝5敗9S。完封2つを含む完投も5回記録して
おり、先発に、抑えにと大車輪の活躍でチームに貢献した。


とゆうのも、80年代後半から90年代前半くらいまでで『ファイターズの
左投手』と言って名前がでてくるのが河野ぐらい・・と言っても過言では
ないほど、当時は慢性的な左不足・・。


河野がフル回転を強いられなければいけない事情もあったが裏返せば
先発、中継ぎどちらにもにも適応できる順応性が河野にはあったわけだ。

また谷間でたまに先発してきては物凄い好投をしてしまうというのも
印象的で通算26完投のうち、完封という数字もそれを象徴している。


しかし河野にとって恐らく生涯忘れ得ぬ、【好投】となったのが89年、
8月31日の東京ドームでのロッテ戦。

初回、先頭打者・西村徳文に打たれた1安打のみに抑えながらも
完投負けを喫している。

もっとも自軍が0点に抑えられて0−1で惜敗したものだが初回の
失点が西村のヒットから自らのエラーが失点に結ぶ付いたもので
後味の悪いものとなった。


そんなチーム内でも貴重な左腕投手であった河野が95年オフ、
取得したFA権を行使することになった・・

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2009年07月03日

西崎幸広【続・三度目の正直・・】

前回からの続き】


因縁の同じ西武戦であってもこの日は今までの獅子打線と決定的な
違いがあった。

それは不動の4番、清原和博を故障で欠き、助っ人のO・デストラーデ
1軍ベンチにはいなかったこと。

主砲を欠いた獅子打線は明らかに迫力不足・・
前日にはK・グロスに1安打完封されるなど深刻な『安打欠乏症』に
悩まされていた。

清原・デストラーデと言えば西崎にとっても眼下の天敵。
それぞれ完全試合、ノーヒットノーランを帳消しにされた相手だ。

この両者が名を連ねないオーダー、元気のない獅子打線を相手に
心理的にも優位に立った西崎が快刀乱麻のピッチングを展開する!


球速が140キロ台前半ながらキレのあるストレートを軸に8回まで
投げ切り西武打線をノーヒット。

初回にジャクソンに与えた四球走者を許したのみで。過去2回、
まさに【鬼門】であった7回も難なく乗りきった。


『今日はデストラーデがいないしね・・』


女房役・田村藤夫とそんなやりとりをするほどこの日の西崎には
余裕もあった。


そして迎えた最終回。
西武の仕掛けた代打攻勢を前に田辺・植田を連続三振に斬ってとる。


あと一人・・・


西崎が元気のない西武打線の中においてもっとも警戒していたバッター、
佐々木誠をバッターボックスに迎えた。

元々、積極的に振りにくるタイプであった佐々木の【攻撃性】を
あざ笑うかのように西崎が投じた初球の変化球を引っ掛ける!
セカンド・渡辺浩司が慎重に裁いてゲームセット・・


西崎幸広、史上60人目のノーヒットノーラン達成の瞬間!!


      yukihiro nishizaki
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マウンド上にナインが集まって、まるで優勝でもしたかのように
喜びを爆発させるFS戦士達・・


パ・リーグでは柴田保光以来、5年ぶりの快挙だった。

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2009年06月27日

西崎幸広【三度目の正直・・】

ダルビッシュ有の登場までファイターズで【真のエース】と呼ぶに相応しい
投手は西崎幸広まで遡らなければいけないのかもしれない。
(にしざき・ゆきひろ)


西崎が現役当時、付けていた背番号は【21】。
現在は抑えの武田久が受け継いでいるが、背番号【21】と言えば
ファイターズではそれまで歴代のエース達が継承してきた由緒ある
背番号だった。


古くは東映時代より土橋正幸、完全試合男の高橋善正高橋直樹・・
ファイターズとゆう垣根を飛び越えてもはや球史に名を残してきた
偉大なる先人達が背に纏ってきたエースナンバー【21】を西崎幸広も
しっかりと『継承』していた。


       yukihiro nishizaki
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『閃光』とも称されたキレのある速球、切れ味鋭いスライダーを武器に
入団1年目から5年連続二桁勝利をマーク。


またその端正な顔立ちと甘いルックスから女性ファンも急増。
昭和の終わり頃に良く使われていた流行語を文字って【トレンディエース】
などとも呼ばれていた時期もあったがあまり本人は乗り気ではなかったらしい。


最多賞・ゴールデングラブ賞・ベストナイン、またリーグ防御率ベスト10以内に毎年のように名を連ね、オールスターも常連・・。

最後まで新人王争いの凌ぎを削った近鉄・阿波野秀幸と共に80年代後半
から90年代前半までパ・リーグを代表する投手の一人だった。


数々の栄光を手にしてきた中でも西崎、白眉の勲章はやはり95年に
達成した史上60人目のノーヒットノーランだっただろう。


『難産』の末に掴んだ栄光・・
この快挙達成の裏にドラマチックな要素がふんだんに詰まった、男の意地と
プライドを賭けたあの日のピッチング。

見せかけだけのトレンディなんかではない、千両役者・西崎幸広の投球に
ファンが酔った・・



『三度目の正直』 西崎幸広の英雄列伝・・・



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2009年06月25日

片岡篤史【ファイターズの次期監督候補とは!?】

北海道日本ハムの次期監督候補としてファイターズOB、
片岡篤史の名が挙がっている新聞記事を見つけた。


現在、リーグ首位を走っている好調ファイターズにおいてこのような
来季の監督人事話が今の時期に出てくるのもいかがなものかと思うが
この片岡氏の名前を聞いて懐かしく、感慨に浸ってしまった。


※ニュース記事 『日本ハム次期監督に片岡浮上…球団内でOB待望論』


       a.kataoka
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『片岡篤史』と聞いて野球ファン、及び日ハムファンが真っ先に
フラッシュバックしてきそうな有名なエピソードが・・


西武に入団した松坂大輔(現B・レッドソックス)の日本デビュー戦。
前年に高校球界を席巻した怪物が敵地・東京ドームで日本ハム相手に
プロ初見参した試合。


初回にいきなり実現した怪物対片岡の初対決。
カウントを追いこんでから松坂の唸りをあげる高めの剛速球に片岡も
負けじとフルスイング・・


片岡のバットが虚しく空を切る!
電光掲示板に表示されたスピードガン表示は155キロ。
ドーム内が一瞬の静寂のあと、大歓声に包まれる・・
今も尚、語り継がれる事の多い『伝説』の名場面だ。


特に松坂大輔を語る上で外せないシーンの一つだが松坂、渾身の
パフォーマンスに応えてみせ、名場面を『演出』した片岡篤史の
名も欠かす事は出来ない。


片岡はファイターズだけで136HR、595打点を叩き出したリーグでも
屈指のスラッガー。
ビックバン打線の中軸を担い、小笠原道大と組む、2・3番コンビは
他球団には脅威だった。


そんな片岡がパ・リーグを代表する打者へと階段を駆け上る、
岐点となったあの試合も含め、今日は回想していきたいと思う。


      片岡篤史の英雄列伝・・

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2009年06月14日

渡辺浩司【31才の春・・】

ちょっと前に野球界でも『リストラの星』なんて言葉が流行った
時期があった。

一度、解雇を宣告された選手が12球団合同トライアウトなどを経て
再び一線で活躍するようなサクセスストーリーの事を指すらしい。


最近ではソフトバンク・宮地克彦や楽天・小倉恒なんて好例だろうか。
ただ涙なくしては語れない、同じサクセスストーリーであっても
今回紹介したい選手は少し訳が違う。


決して『リストラの星』ではない。
つまり『クビ』にはなっていないのだ。


10年以上にも及ぶ長い2軍生活・・
いつクビになってもおかしくなかった男にようやく訪れた春・・



上田利治監督が日本ハム監督に就任した1995年。
前年断トツの最下位から巻き返しを図るべくチーム内の抜本的改革が
推し進められていたこの年。


他球団に比べて圧倒的に選手層の薄かったファイターズが追い討ちを
かけるようにシーズン序盤から当時正二塁手だった白井一幸を故障で
欠いてしまう。


そんな折、その白井の穴埋めを期するべく首脳陣の目に留まったのが
プロ生活14年目、当時31才だった渡辺浩司だった。(わたなべ・ひろし)


        h.watanabe
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31才・・到底若手とは呼べる年ではない。
既に中堅選手としてチーム内に位置していた渡辺がそれまでの
13年間、プロで積み重ねてきたヒットは15本。(2HR)


繰返すが13年間で15本のヒットしか打っていない。
当然ファーム暮らしが長かった訳であり、これを聞いただけで瞬時に
思えてしまうのは・・


『よくぞ球団がここまで置いといてくれたな・・』


やはりそう考えてしまうのが必然だろう。


しかしこの時を待ち構えていたかのように渡辺が攻守にハツラツと
した動きを見せる。


【やっと自分に巡ってきたチャンス!】

【一度掴んだチャンスはもう逃がすまい!】


やはり13年のキャリアはダテじゃない。
まるで今までため込んできた13年分の鬱憤を晴らすかのように
打ちまくった。前半は3割近くの高アベレージをマーク。


凱旋となった渡辺の地元、新潟で行われた近鉄戦ではマルチ安打の
活躍を見せる。結局この年、規定打席にも達し100安打。


こうして今まで一軍に定着すらした事なかった渡辺が表舞台で
輝きを放ち始めた。



この時、渡辺浩司31才、プロ14年目・



あの時の渡辺を振り返ってみると改めて思う。
今が辛く苦しくとも、グッと耐え凌ぐ。
その先に予想も出来ない、サクセスストーリーを起こす可能性は
誰しもが持っている・・



【エピローグ】


ちょうど現役引退した年にファームが選手権を制し日本一になった。
結局、一軍で優勝を味わう事が出来なかったが初めて(?)体験する
ビール掛けにとても嬉しそうだった渡辺さんが印象的でした。

現在は北海道日本ハムのスカウトとして活動されている渡辺さん。
ご自身のような強いハングリー精神を持った選手発掘に情熱を
注いでる事でしょう。


《関連本》
多摩川晩花―日本ハムファイターズ渡辺浩司 苦節13年の軌跡


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