2012年05月24日

名古屋にもいた “持ってる男”

拙攻続きで何か消化不良な感じも否めませんでしたが、投手陣の踏ん張りのおかげできっちりと横浜DeNA戦に連勝したファイターズ。23日が終了した時点で交流戦の順位は2位につけています。やはり、好調な外国人選手を“活用”できるDH制を使えるのは大きいですよね。あらためてパならではの制度のありがたみを感じました。

さて、ここからはセ・リーグの上位チームと対戦が控えています。“負けなし”ジャイアンツを含め、どの球団も一筋縄ではいかなそうです。ホームではできれば2つ取っておきたいところですが、どうなるでしょうか。ファイターズは25日から札幌ドームに昨年のセ界覇者・中日ドラゴンズを迎えます。


私、今季一新されたドラゴンズ首脳陣の顔触れを見ていて『あぁ..いいなぁ』と感嘆してしまったのですよ。落合政権のときはどちらかというと“外様”が目立ちましたけど、今まさに【ドラ一色】って感じじゃないですか。監督の高木守道さんを含め、投手コーチにはアノ権藤さん!宇野さんに平野謙さんに井上一樹さん‥。当時を彩った往年の名プレーヤーたちが各部門に配置されて。2軍を受け持っている今中さんや川又さんなんかもモロ“自分世代”。ドラゴンズファンにはもっとたまらないんじゃないのかな。

極めつけは“元エース”の川上憲伸と、10年ぶりに名古屋に帰ってきた山崎武司の復帰!この補強などは一時期ささやかれていた「人気低迷」打破に向けて、並々ならぬものを感じました。ファイターズに例えるなら小笠原道大とダルビッシュ有あたりが一緒に戻ってきたような感覚?(笑)

相変わらず投高打低なイメージは拭えませんけど、ピッチャーに関してはベテランから中堅・若手にかけて非常にバランスの取れた陣容で相変わらず大崩れはしなさそうです。谷繁が元気な今シーズンも優勝争いにはかならず顔を出してくるでしょう。年令からいってもそう長くは指揮を取らないであろう高木監督に「最後の花道」を飾らせることができるでしょうか。


先ほどの首脳陣の話ではないですけど、選手も堂上兄弟だったり浅尾投手であったり 【名古屋色】が強いですよね。他球団と比べても地元出身の選手を多く獲得する印象を受けます。ちょっと注目したのは近藤真市1軍投手コーチを長谷部裕同捕手コーチ?この両名は亨栄高校時代バッテリーを組んで甲子園にも出場していました。なんかこうして今も“チームメイト”でいること自体すごいなと感じてしまったのですが、近藤投手といえばあの年のドラフト....関係者は歯がゆい思いをしたんじゃないのかな。

ほら、1986年は近藤投手をクジで外したファイターズが西崎幸広投手を指名したじゃないですか?ご存知、元トレンディエース!彼は愛知工大出身ですよ。“地元愛”を謳うドラゴンズだけに、その後の人気と活躍ぶりをみながら心中複雑だったのではないかと(もっとも近藤さんも“伝説”はつくりましたけど)


亨栄高といえばこんな繋がりもありました。ファイターズの正捕手として一時代を築き、同校のOBでもある大宮龍男さん。1987年オフに大島康徳選手らとのトレードでドラゴンズへ移籍しました。



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この大宮さんも今で言うところの 【持ってる男】。1981年はファイターズでリーグ優勝に貢献し、ドラゴンズ・さらには次に渡った西武ライオンズでも移籍初年度に優勝を経験しました。日本シリーズに出ることが夢だったり目標であったりというプロ野球選手も多いなか、在籍した3球団すべてで出場できたのは強運としかいいようがないですよね中嶋聡も達成しています)


でもこれだけじゃないんです。

大宮さんは現役時代、強肩・強打の捕手としても鳴らしていたのですが、1980年7月29日の南海ホークス戦でサイクルヒットを達成されています。何は凄いって、この年打ったホームランと三塁打は各1本ずつ!つまり1日にまとめて打ってしまったために、サイクルを記録できたのです。なかなかの“持ち度”でしょう?

指導者としてはファイターズの打撃コーチとして、初代・ビックバン打線を形成させました。あの独特なギョロギョロした目をベンチから光らせていたのは、よく覚えてますね。

サイドバーに“捕手ランキング”というのが設置してあります。 ファイターズファンでもドラゴンズファンでも...これを見て久々に『あ、オーミヤって良いキャッチャーだったよなぁ』と思い返してくれた方は、あらためて大宮捕手に一票いれてあげてください(笑)




※次回は巨人編!

2012年05月17日

モノマネだけじゃ、伝わらなイースラー?!

自分思うんです


とんねるずが仕切る番組の中のワンコーナーに「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」ってありますよね。よくあれに野球選手の真似する人出てくるじゃないですか?落合博満さんとか、最近だとイチローをやる人もいるのかな。

あれらは分からない人が見たってまったく面白くないんじゃないのかなって。野球ファンでもちょっと危ういくらい?細かいところを突いてますもんね(笑)。幸い私はある程度その辺の知識を持ち合わせていたので、毎回笑わせてもらってますけど。

でも落合さんやイチローならまだいいです。ほら、イースラーとかオグリビーのバッティングフォームをコピーしているアノ芸人さん?おそらく彼が野球系モノマネをした“元祖”なんだろうけど、ベンジャミン(小栗BのFN)とかの真似されたって、今の人は分からないんじゃないのかな(苦笑)。そういった方々はおそらく彼が醸しだす空気というか“独特の間”みたいなものを、楽しんでいるのだと思います。


一見オーバーにも見える打撃フォームの数々‥。ポイントを押さえているのはもちろんですが、これはもう彼の人選のよさを褒めたたえるしかありません。オーバーでもなんでもなく“あのまんま”なんです。イースラーもオグリビーも、本当に。だから真似される外国人選手を実際に目にしてきた世代的には、あのシリーズを見るとたまらないものがあります。考えてみたら現代よりもずいぶんと個性的なフォームをしている外国人が多かったですよね(次はブコビッチ!いきましょう)


私は日ハムファンなので、マイク・イースラー選手のことを語らせてもらいますと、まるでゴルフスイングのような、豪快にすくい上げるアッパー打法。すごかったですよー。何がすごいって、あれで率まで残せちゃうんだから。モノマネや当時の映像などを見ていると、なにか穴も多いホームランバッターみたいなイメージがありますけど、意外にも彼は左右に広角へ打ち分ける巧打者タイプでした。 ※記事下動画も参照



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1989ファンブックより


日本での通算打率も3割を超えてますしね。そもそもイースラーはメジャーでも生涯打率が.293。1000本安打に100本塁打以上も記録するなど、相当な実績を積んでいました。

当時いた2人の助っ人が相次いで故障してしまい【緊急補強】でファイターズにやってきたのが1988年。この時すでにイースラーは37才でしたので、正直年齢的にもどうかと思ったのですが、来日初打席いきなりホームランを放つなど、過去の実績にそぐわぬ活躍をみせてくれました。


モノマネのおかげなのか、日本ハムの歴代外国人選手の中ではウインタースにも勝るとも劣らないくらいのインパクトで超有名人。メジャーリーガーとして、また助っ人としても実力は一級品でしたので、そこのところも忘れずに、後世に語り伝えていきましょう! フレ、フレ、フレ、フレ、フレッ♪♪





2011年01月08日

ブライアン・デイエット 【桜のあとの、花火‥】

1989年5月5日。21年前の子供の日、私は家族で東京ドームのオリックス戦を観戦しにきていた。それまで5連勝と勢いに乗るファイターズ、西武戦以外では珍しい5万6000人の大観衆を集めていた。

序盤からオリックス打線が爆発し、先発の津野は早々KO‥。いきなり6点のビハインドを背負った。家族、そして周囲のファンも、どことなく「今日はダメか‥」の空気が蔓延り始める。

だが、ファイターズにはあの男がいた。あの男が流れを変えてくれる!私はある選手に一縷の望みを託していた。


【きっと、デイエットならやってくれる!】


チームを退団する1991年までの4年間‥ これほどまでに長きにわたってブライアン・デイエットを置いていた理由が、私はよく理解できていなかった。NPB通算21本塁打のデイエットをなぜ‥。答えは単純、彼は4年の長期契約を球団と結んでいたのだ。私はこれを後に知る。育成目的以外では現在だったら考えられない契約内容で、複数年契約を好む外国人選手にとっては、なんともありがたい話である。そういえば当時の日本はバブルの絶頂期、野球界もこの恩恵をモロに受けていたようだ。来日前にカブスの主軸を担っていた時期もあったが、メジャーでそれほど実績を残しているわけでもない。そのデイエットがP・パットナムに代わる助っ人としてファイターズにやってきた1988年。当時、広いとされていた東京ドーム元年、新時代の大砲として迎えられたデビュー戦は華々しかった。

故障で出遅れたものの、4月20日の近鉄戦で初打席初安打、次打席では初本塁打と、満点デビュー。翌日の試合も本塁打を放って、今後の活躍が大いに期待されていた矢先、足の故障で再び長期の欠場を余儀なくされる。結局初年度は35試合の出場、本塁打4・打点13の低調な成績に終わった。同僚のT・ブリューワとともに、助っ人2人を欠いた打線は明らかに迫力不足で打率・本塁打はリーグ下位、チームにとっても痛すぎる離脱となった。


そして翌1989年。故障から復帰した4月25日の西武戦では渡辺久信からサヨナラ3ランを放って、またしてもド派手な「再デビュー」を飾った。そこから前年のうっぷんを晴らすかのように、デイエットは打ちに打ちまくった。


(左から打数-安打・本塁打・打点)
4/25  5-1  1  3 (サヨナラアーチ)
4/26  4-2
4/28  2-1  1  1
4/29  5-2    1              
4/30  3-1
5/ 2  5-2  1  1
5/ 3  5-3  1  2 (2試合連発)
5/ 4  5-2    1 (決勝打)


1軍復帰後からの2週間弱で打率.412、本塁打4、打点9。デイエットの猛打が炸裂する。またチームの勝利に直結する一打が多いなど内容もよく、当時の近藤貞雄監督をもってして『その場面で何が必要か、試合の読める選手』と絶賛していた。


【そうだ、デイエットまで回せ!!】

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2010年11月28日

WBCに愛があった。 【高代延博】

高校野球の名門、智弁和歌山高から今年のドラフト会議で2巡目に指名された西川遥輝。筆者の記憶が正しければ、恐らく同校からファイターズに入団してくる選手は初ではなかったか。間違えやすいのが智弁学園高で、智弁和歌山の兄弟高にあたり、こちらは奈良県にある。

その智弁学園高出身。そこから法政大、社会人・東芝へと渡り、1979年のドラフト1位。まさに野球界のエリート街道を歩んできたともいえる、元ファイターズ戦士・ 高代延博(たかしろ・のぶひろ)

入団1年目からレギュラーとして活躍。遊撃手としてゴールデングラブ賞を受賞、2年後のリーグ優勝にも貢献した。打順は主に2番を任され、身長168cmの1番・島田誠との 【ちびっこ1・2番コンビ】は、当時の日ハム打線の象徴とも云える存在だった。(高代の身長は公表170cm)

1989年に法政OBの山本浩二新監督が待つ、広島へと移籍も同年オフに現役を引退。翌年、同球団のコーチに就任した。ひょっとしたら戦力としてよりも、早い時期から高代の指導者としての資質を、山本は見抜いて可能性もある。以後、中日やロッテのコーチを歴任、2002年には古巣・日本ハムにも復帰をはたしている。

現役を退いてからもう20年以上経過し、2009年にはWBC日本代表の内野守備走塁コーチも務めているので「名3塁コーチャー」としての方が、なじみ深い人も多いかもしれない。

そのWBCでの記憶と記録‥ 電話で原辰徳監督からコーチ就任を要請された日から、世界一に上り詰めるまでの146日間を一冊の本に書き記した、高代延博著 【WBCに愛があった。】


WBCに愛があった。三塁コーチが見た侍JAPANの知られざる感動秘話
高代 延博
ゴマブックス


実際に「日本代表」として帯同していた者、ならではの視点‥

例えばイチローが、一見何でもない外野飛球を落球したことでメディアは色々と書きたてていたが、本書を目にし「真相」を知った。


3塁コーチャーとして‥

打球方向・守備位置・相手選手の肩、それこそ0コンマの世界のなかで直面する、あらゆる状況を読みながら走者に的確に指示を出す、高代eyes‥


日の丸を背負った男の「現場」の声、栄光をつかむまでの苦悩・葛藤・歓喜、そして「愛」があった。真の野球人が綴る本書に出逢えたことを嬉しく思い、シャンパンファイトではファイターズ時代の記憶に想いを馳せた、高代がOBであることを誇りに感じる。

ちなみに‥ グラウンド上では威風堂々とした高代コーチの苦手なものが、「幽霊」だそうだ。


※同じく高代氏を誇りに感じる方、いや高代氏は日本代表の誇りだ!という方、いえ私は高代氏を愛してる!‥(笑)という方は是非 ワンポチのご協力、よろしくお願いいたしますにほんブログ村 野球ブログ 北海道日本ハムファイターズへ

2010年05月16日

武田一浩 【燃える男】

中日・阪神で監督を歴任、北京五輪では日本代表の監督を務めた
星野仙一氏の野球と向き合うその姿勢に、現役時代から「激情家」
「燃える男」などと、呼ばれることがあった。

そんな熱い「魂」を受け継いだかのような「燃える男」が、星野氏と
同じ明治大から昭和の末期、ファイターズに入団してきている。


1987年ドラフト1位 武田一浩 (たけだ・かずひろ)


彼の名を見てフッと脳裏によぎったエピソードは、いつかの契約更改
後の記者会見。 球団側の提示した金額によほど不満があったのか、
ボストンバックを叩きつけ、怒りを露わにするの武田の姿‥

「激情型」の武田は常に真っ向勝負。打者に向かっていく、その闘争心
むき出しピッチングに、当時の近藤貞雄監督は『守護神』としての適性を
見出し、これが功を奏した。1990年、日本新(当時) となる12試合連続
セーブ記録をマーク。

「燃える男」は一旦乗せると、もう誰にも止めることができない。


1989年の雄姿‥


8月2日の西武戦でプロ入り初完封勝利。次戦では近鉄のエース・阿波野
秀幸
とのしびれるような投げ合いに勝ち、連続完封。3試合連続を狙った
金沢のロッテ戦では8回まで無失点投球も9回に失点‥ 無念のサヨナラ
負けを喫する。一度火が消えた「燃える男」は次の登板で、いとも簡単に
KOされてしまう辺りが、また「らしい」。

マウンド上での振る舞いは「豪胆」そのものだったが、投球スタイルは、
打たせて取る、どちらかといえば技巧派タイプ。ストレート、変化球を
コーナーに集め、得意のフォークボールで凡打の山を築いていくのが
武田の持ち味だった。


個人的に武田一浩の登板ゲームで印象深く、思い出に残っているのが
優勝争い真っただ中で快投ショーを演じた93年8月、西武との一戦。

天王山の初戦を任され、王者相手にもひるむことなく立ち向かい、9回
2死から得点を許して完封こそ逃したものの、堂々の完投勝利を飾った。

52,000の大観衆‥ ここでの先発を以前から望んでいたという武田は、
いつにも増して「燃える男」となっていた。


k.takeda


武田ような投手は当時の大沢啓二監督は好き好んだタイプだろう。
監督が変わった95年は調子は良かったものの、首脳陣との確執から
1軍での登板はわずか2試合に終わり、オフには福岡ダイエーに放出。

その悔しさをぶつけるかのように、ダイエーでは先発の柱として活躍した。
中日では生涯唯一となる優勝も経験。更に巨人移籍後は、交流戦が始まる
前としては珍しい、セパ12球団から勝利を挙げるといった記録も持っている。

お宝動画コーナーはコチラ!

2010年04月24日

宇田東植 【親父‥】

筆者は幼少の頃から現在に至るまで関東圏に住んでおり、東京時代
晩年の頃こそ、東京ドームに良く足を運んでいたが、ファイターズ戦と
いえばもっぱらテレビ観戦が主流だった。

特に世話になったのが、テレビ埼玉(現テレ玉)で、ライオンズ戦の合間を
縫って放送されていたヒットナイター

当時はCS放送も普及されていなかった時代で、 しかも筆者は当時
まだ学生。なかなか球場へは通えなかった事情もあって、ファイターズ
主催試合がかなりの頻度で放送された、ヒットナイターが筆者にとって
貴重な「情報源」となった。

オレンジ時代の田中幸雄西崎幸広がまぶしく映っていたあの頃‥
解説者として、毎回登場してくれたのがファイターズOB・宇田東植
(うだ・とうしょく) 日ハム 1972〜1981 阪神 1982 韓国・ヘテ 1983〜1984 

1984年、韓国のヘテ・タイガースで現役を引退されたので、宇田氏の
実際にプレーする姿を見たことはなかったが、ソフトな語り口とともに、
そのインパクトあるお名前に、強い好奇心を抱いた‥


元野球選手だったとは思えぬような、投手としてはやや小柄で眼鏡を
かけたインテリな(?)風貌。語り口もソフトなら投球フォームも実にソフト。
アンダースローから繰り出す変化球を武器に、1979年は勝を挙げ、
防御率3.47でリーグ7位にランクする活躍をみせた。

この年こそ先発ローテーションの一角に加わり、チームのAクラス浮上に
一役買ったが、ファイターズ時代は主に中継ぎ・先発の谷間的な役割が
多かった。

現役当時の姿を見たことがないと言ったが、宇田氏の投球を一度だけ
目にしたことがある。81年、巨人との日本シリーズ第4戦。4番手として
登場していた。

1点ビハインドの6回から登板。7回、宇田が与えた先頭打者への四球を
きっかけに、味方のミスも重なって巨人に大量点を献上してしまう。

これが後に「シリーズの流れを変えた」と言われた、魔の7回となって
しまったわけだが‥ それまで好投していただけに、あの四球は本人も
悔やまれただろう。


       河埜への最後の際どい一球が明暗を分けた!

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そして、現役引退後は前述のテレビ解説者としての生活がスタート。
時にファイターズがひどいやられ方をされるようなものなら、アナウン
サーからの問いかけにも、黙りくくってしまう時があったように‥(笑)
穏やかな口調とは裏腹な、『ファイターズ愛』に満ちた解説がウリで
隠れファンも多かった。

今回はそんな宇田氏の「名解説ぶり」を、少しだけ振り返ってみよう。
時は1999年4月7日の東京ドーム。あの怪物がデビューした日‥

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2010年02月08日

中島輝士【鮮烈‥そして、意地の一発】

ファイターズには昔からデビュー戦を華々しく飾る選手が多い。

プロ初登板を完封勝利で飾った、芝草宇宙中村隼人
ルーキーイヤーの開幕戦にいきなり猛打賞をマークした大貝恭史
デビュー戦、初打席初本塁打のM・イースラーM・マーシャル

悲しいかな、その後は泣かず飛ばずといった現象が見受けられて
しまうのも特徴的ではあったりするのだが‥。デビューにまばゆい
ばかりの輝き放っていた男なら、この選手も負けてはいない。

『新人選手・開幕戦・サヨナラ本塁打』

これは長いプロ野球の歴史の中で過去2人しか記録していない、偉業。
初っ端から、このとんでもないことをしでかしてくれたのが 中島輝士
(なかじま・てるし) 背番号『』 佐賀県出身 

まずはテルシーこと、中島が放った『奇跡の一発』から、振りかえって
みよう。


時は1989年。年号が平成となって初めて迎えたプロ野球。開幕日の
4月8日は全国的に雨模様でセ・パ3試合が雨天中止となった。
パ・リーグはドーム球場で行われる1試合のみ。前年に発足したばかり
の新生・福岡ダイエーホークスを、ファイターズが地元で迎え撃った。

4−4で迎えた9回裏1死1塁の場面。迎えるのはルーキーながら7番・
ライトでスタメン出場をはたした、中島。山内孝徳の内角高めの直球を
フルスイングすると、打球は左翼席最前列に飛び込む劇的なサヨナラ
ホームラン。新人選手の開幕サヨナラ弾は南海の穴吹義雄以来、33
年ぶりの快挙となった。

打球を見届け、1塁ベース上で派手にガッツポーズを決めていた中島。
その姿に、輝かしい未来を予感させた。12日には西武・渡辺久信から
早くも2号をかっとばし、このまま一気にいくかと思われた。しかし、アマ
チュア時代に全日本の4番を務めた男も、その後プロの分厚い壁にぶ
ち当たってしまうことになる‥


『全日本の4番』


野茂英雄古田敦也野村謙二郎ら、豪華な顔ぶれが一堂に集結した
1988年のソウル五輪。この兵揃いのチームの中で4番を務め、銀メ
ダル獲得に貢献した。そして、その年のドラフト会議でファイターズが
交渉権を獲得。球団史上最高額となる契約金、(当時)まさに鳴り物入
りで入団した。

26歳での遅いプロ入り‥。 長いアマチュア生活で培われた、金属から
不慣れな木製バットへの対応‥。後年中島が伸び悩む要因ともされた。
ようやくオリンピックの時のような、シュアな打撃を披露し始めたのが4年
目の1992年。この年、中島は初めて規定打席に到達して打率.290を
マーク。ベスト10入りを果たす。

もともと長打力も兼ね備えていたが、デビュー戦以来といってもいい、
『ホームラン』で再び大衆を魅了してくれたのが、あの年だった‥ 

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2009年07月18日

木田勇【一番欲しかったのは・・】

『記録より記憶に残った・・』なんて言われる選手も結構いるが
この選手は紛れもなく日本ハム史上、いや球史に名を刻んだ
記録に残る、そんなピッチャーだった。


79年、ドラフト1位でファイターズに入団した左腕・木田勇(きだ・いさむ)


細見ではあったがしなりの効いた左腕から繰り出すキレのある速球、
当時としては珍しい、パームボールを得意とした投手。


ルーキーイヤーだった1980年。この年のパ・リーグを席巻し、
まさに記録づくめだった一年。それこそ木田勇のためにあった
ような年でもあった。



        i.kida
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まず80年の投手部門、各タイトルホルダーに目を通すと木田の名前が
これでもかと、ズラリと並ぶ。

最多賞最優秀防御率最高勝率最多奪三振ベストナイン
更に記者選考による新人王MVP・・・

ルーキーながら前半戦までに10勝をあげ、ファン投票で球宴にも選出。

トータルでは、

【勝利】   22(8敗4S)
【勝率】   .733
【防御率】  2.28
【奪三振】  225
【投球回数】 253


まさに圧巻の数字が並ぶ。
更にこの年は日本記録のシーズン毎回奪三振を(翌年、巨人・江川卓も記録)
1試合ゲーム奪三振『16』は当時、歴代2位の記録。

投手にとって最大の名誉である沢村賞が当時、パ・リーグの投手は選考
外で受賞できなかったのは残念だったがちなみに80年は『該当者なし』。

もしこの『縛り』がなければ木田にもうひとつ、勲章が加わっていたのは
間違いなかったことだろう。


一年目にして数々の栄光と栄誉を手にした木田。
この年に手にする事ができなかったのは・・


そう!ペナント。


無論、1投手の力だけペナントを掴むのは無理な話だが80年、
日本ハム球団になってからの初優勝を賭け、いつもひょうひょうと
した細面の木田勇が大きく関わっていた。


栄光の1年の中で木田にとってある意味一番忘れ難い試合となった
あの日・・


『驚異のスーパールーキー』木田勇の英雄列伝・・・
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2009年03月11日

背番号『0』の英雄【松浦宏明】

なにやら北海道日本ハムでは背番号『』を使用する事が
廃止になったらしい。


理由として・・


『通常は1番から始まる社会通念上の番号という定義では、
 違和感がある』 ・・・とのコト。



この理由に対し、色々賛否はあるだろうが個人的には何となく
分からない気がしない訳でもない。


ファイターズの背番号『』と言えば最近では現・巨人の
古城茂幸が入団時から付けていた事で有名かもしれないが
個人的に一番印象に残っているのは長きに渡って『番』を
背負っていた松浦宏明の名が思い出される。
(まつうら・ひろあき)



1984年、入団時の背番号は『59』であったが4年目の
88年から投手としては珍しい背番号に変更されている。


意図は分からないが前年の87年、抑えとしてSを挙げ
急成長を遂げていたところを見れば決して懲罰的な意味合いでは
ないだろう。


87年は敗戦処理からスタートした松浦が登板する度に不思議と
打線が爆発し、勝ち星が転がり込んでくる事から『逆転のマツ』
呼ばれていた。


この年はリリーフのみで開幕から連勝。
オールスターにも出場し一躍松浦の名が全国に轟く。


そして背番号変更後の88年、シーズン途中から先発に転向し
15勝5敗、防御率2.76の好成績でパ・リーグ最多勝にも
輝いた。


90年には11勝8敗で2度目の二桁勝利。
91年にも9勝、93年からは中継ぎとしてチームに貢献し
西崎幸広と共に常にファイターズの主戦投手として在り続けた
存在だった。


だが95年、背番号が『11』に変更された途端に不調に陥り、
シーズン途中に横浜にトレードされてしまう。


特別、0番が似あったとゆう訳でもないし『0』じゃなければ
いけなかった、とゆうのもチョット大袈裟な言い方だが・・

松浦にとってのゲンが良い番号とはやはり『』だったのでは
ないだろうか。


全ては結果論だが今はそう思えてならない。


もうファイターズでは見る事の出来ない背番号・・・『0』


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2009年02月27日

エースの系譜!開幕男【津野浩】

ファイターズで80年代後半に活躍した投手といえば
エースで君臨した元祖・トレンディエース西崎幸広
名を思い浮かべる人も多いと思う。


そのひとつ前の代・・という言い方も変だが昭和も終りの頃、
弱小時代のファイターズを支えた津野浩とゆう投手がいた。
(つの・ひろし)


         h.tuno



津野は高知商から1983年にドラフト3位指名を受け
ファイターズに入団。右投右打。背番号は30

現在、埼玉西武ライオンズの監督・渡辺久信や投手コーチの
小野和義と同世代。


高卒1年目から一軍での登板機会を与えられ勝をマーク。
2年目以降も勝、10勝と年々勝ち星を積み重ねていった。

華々しくプロでのスタートを切っていたにも関わらず、
渡辺ら同世代の投手たちに比べ、それほど周りに強い
インパクトを残せなかったのはなぜか!?


それもそのはず。当時のファイターズは・・・



 84年  リーグ最下位 (44勝73敗13分)

 85年  リーグ5位   (53勝65敗12分)

 86年  リーグ5位   (57勝65敗8分)



万年リーグ下位に甘んじている。
そんな弱かった時代のエースこそが若き日の津野浩だったのだ。


だが津野には西崎にも岩本勉にも金村暁にも、あのダルビッシュ有
ですらまだ果たせていない立派な勲章があった。



   『弱小時代のエース』 津野浩の英雄列伝・・・
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2009年02月22日

伏兵がHEROになった日・・【鍵谷康司】

先日球界随一の小兵投手、谷元圭介投手がファイターズの
1軍キャンプに合流した事が話題になりましたね。


身長は166cm。一般の成人男性と変わらないか、むしろ
それよりも小柄な谷元投手ではありますが140キロを超える
キレのある速球にスライダー・シュート、左右に散らすピッチ
ングで是非このままアピールを続けて欲しいものです。


中継ぎを期待されているらしいですがファイターズには現在、
武田久とゆう谷元と同タイプの投手もいますし将来的には
二人で勝利の方程式を担ってくれるようだと面白いですよね!



・・ところで1981年のVメンバーに谷元と同じ166センチで
主に守備要員として活躍した鍵谷康司とゆう選手がいました。
(かぎたに・こうじ)


鍵谷は1975年にD4位でファイターズに入団した
右投左打の内野手。背番号は29。


特にセカンドの守備は絶品で菅野光夫と併用される形で
たまにスタメンに名を連ねる事はあってもほとんどは
試合終盤に出てくるもっぱらの守備の人的な存在・・。


ほとんど打席に立つ機会などもなく守備でチームの勝利の黒子に
徹していた鍵谷であったが一度だけ主役になった日がある。


『守備固め』の鍵谷の名が全国にとどろき、一躍時の人となった
まるでドラマのようなストーリー。


       鍵谷康司の英雄列伝・・・

続きを読む

2009年02月18日

柏原純一【チョット不細工な敬遠ホームラン・・】

1999年6月12日・・


甲子園での阪神・巨人戦と言えば新庄剛志が槇原からの
敬遠球をレフト前にはじき返し、サヨナラ勝ちを収めた
シーンはあまりにも有名ですよね。


しかし更にその上を行く『悪球打ち』の名手が過去の
ファイターズの選手の中にいたのはご存知だろうか?


まずはこれからお見せする動画をじっくりご覧頂きたい!





このホームランをかっ飛ばした選手の名は柏原純一
(かしわばら・じゅんいち)


バックネット側から見た映像なので若干分かりづらかったと
思うがこの打ち方はまさに・・

『大根切り』そのものですよね。


それを『ホームラン』にしてしまう柏原がこれまた凄い!


被弾した投手は西武の中継ぎ左腕・永射保
サイドハンドから癖のある球を放り、左の強打者に打順が回って
くると必ずといっていいほど登板してきた、通称『左殺し』


実はこの柏原の後を打つ左打者のT・ソレイタは永射を大の
苦手としていた。
柏原を歩かせソレイタ勝負を目論んだ矢先のまさかの被弾・・。
まさに予想外な失点だったであろう。


そういえば新庄剛志が阪神入団時、99年の打撃コーチを
担当していたが柏原だった。


あの槇原から放った敬遠打ちのルーツはきっと恩師の存在から
来ていたに違いない・・

2009年02月10日

開幕15連勝の奇跡【間柴茂有】

球団名が日本ハムとなってからは日本一達成時、2006年の
ファイターズ陣容が最強だったとおっしゃる方も多いのですが
オールドファンの間では1981年、リーグ優勝達成時の
日本ハムファイターズこそが最強だったと推す声も多く聞かれます。


それもそのはず!
とりわけ投手陣に至っては過去のタイトルホルダー達が
一堂に介しているのがこの1981年。


孤高の一匹狼・江夏豊を始め、沢村勝投手・高橋一三
20勝投手・高橋里志成田文男、前年度のタイトルを
総なめにした木田勇、更には日本人初のメジャーリーガー
マッシーこと村上雅則さんもこの年、ファイターズに
在籍されていました。


この最強と言われた投手陣の中で忘れられない存在であるのが
大洋(現・横浜)から77年に移籍してきた間柴茂有投手。
(ましば・しげくに)

ケロヨンの愛称でファンからも慕われた技巧派・左腕投手です。
(大洋時代の登録名は間柴富裕


京都の比叡山高校から70年に大洋入りするもプロ入り後、
4年間は勝ち星なしの7敗・・。


しかしそんな間柴がファイターズに移籍してきてその才能を
一気に開花させる事になる。


実は交換要員が当時エース格だった野村収
このトレードにはどちらかと言えば否定的な見解を示す者も
多くはなかった。(野村収⇔間柴茂有・杉山知隆


間柴があの大記録を打ち立てるまでは・・

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