2014年09月29日

マックとともに...

常に「主力」として在り続けた選手で、入団から引退までの軌跡を見届けられたのは、振り返ってみると金子誠が初めての選手だったかも知れない。

選手生活晩年に差し掛かってくると、どこかへ放出したり譲渡したりしてしまう、ハムの悪しき伝統‥。島田誠に西崎幸広、田村藤夫や片岡篤史といった往年の名選手たちも皆、最終的には他球団に籍を置いていた。生え抜きの田中幸雄はハムで現役で終えたが、入団1、2年目のころは筆者がまだ幼かったこともあり、そのプレーの数々をクッキリとは憶えていない。

となると、やはり「マック」が初---

1軍初出場を飾った入団2年目。1995年の消化試合で放った記念すべきプロ初安打も、この目で見た。あれから20年‥‥マックとともに歩んできた、私の日ハム人生。チームが絶望の底にいたときも、歓喜の中にあったときも、彼の姿はいつもそこにあった。

鎌ヶ谷に立派なファーム施設が完成したのは1996年。この恵まれた環境下で多くの若手選手が1軍へと羽ばたいていったけれど、金子が入団した頃はそれよりも前の、荒れ地と騒音の多摩川河川敷時代。よくぞ金子のような一流プレーヤーがでてきたものだと、今あらためて思う。


甲子園に何度も出場し、大型遊撃手でドラフト3位。符合する点が多かったことから、自然と田中幸の後釜を期待していた。実際当時の大沢啓二監督も、入団1年目の金子の将来に期待を寄せるコメントをしていたのをハッキリと記憶している。ところが筋肉隆々となったミスターに比べ、金子の体型は、さすがに入団当初よりはガッシリとしたが、見た目にはほとんど変化がない。“しなやかさ”を、いつまでも彼は備え続けていた。

変化がないといえば打撃フォームもそう。たまに若き日の背番号「30」時代の動画などを眺めていると、現在のそれとまるで瓜二つなのだ。どちらかといえば一見飄々とした印象を受ける金子も、野球となればそこは揺るぎない、芯の強さがあったことを窺える。ときに“飄々具合”が覇気がないと捉われ、ある監督から干されかけた不遇の年もあったけれど、そのスタイルは最後まで変わらなかった。


バットでは突如“開眼”した2009年の大躍進(打率3割超)も思い出深いが、個人的には2006年の日本シリーズ第2戦。山本昌から放った決勝タイムリーが忘れられない。あれでシリーズの形勢が変わった。本当の意味でチームを44年ぶりとなる日本一へ導いてくれたのはSHINJOでもセギノールでも稲葉でもない。生え抜きの金子であったのだ。


久々にショートで先発出場した28日の福岡ソフトバンク戦。5回のファインプレー時、守備範囲が狭くなったと、本人はあらためて自嘲気味に話していたが、私としては守備範囲の広さよりも、まず「マック=強肩」が第一に思い浮かぶ。あの強肩ぶりに、何度投手陣は救われたことだろう。

三遊間の深い位置からノーバウンドで一塁へ送球。いわゆる遊撃手の“見せ場”といわれる場面を、なんでもないようにやってのけてしまう。だから周囲にそこまで“美技”として映らずに、彼は損をしていた部分もあったかも知れない。本当はもっとゴールデングラブ賞を受賞していてもよかったと思う。




瞼に焼きつけよう‥

金子誠がいた時代こそが、そのまま私にとって野球“観戦”人生でもあった。東京から北海道に移転した激動期。弱小球団から常勝軍団へ。二塁手あるいは遊撃手、恐怖の9番打者として、また選手会長としてもチームをけん引。色んな姿のマックをみてきた。辛い時代も長かったから、書いていて涙が出そうになってくる。感謝の言葉しかでてこない。万感の想いを胸に、ありがとう---


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ラベル:金子誠
posted by 羽夢 at 09:53| Comment(0) | TrackBack(0) | FSコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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