2014年02月23日

ツナグ・ブログ

前ヤクルト監督で、現DeNAのGM・高田繁氏が以前、日ハムの監督をしていたのを知っている人はどれくらいいるのだろう‥‥。筆者が物心ついて応援を始めたころの監督が氏だったから、もう30年近くも前の出来事。お互いに年はとった。

ちょうどその高田ハム時代。『監督と同姓だから』そんな理由で、幼き日の私は名鑑を眺めながら「実は親子なのではないか?」と、高田博久という投手が妙に気になってしまった(実際には血縁関係はない)


“高田投手”について調べるうちに、いくつかの面白い点に気づく。同名であり、ほぼ同時期に名アンダースローとして鳴らした松沼博久を意識して、自身もその投法にしたのか?‥‥ドラフト外入団なのに良い背番号(16)をもらっているのなぜか?とか、まあ子供だからこんな程度のことではあったが。

背番号にかんしては、私も後に知ったのだけれど、読売との争奪戦のすえに、日ハムを選んで来てくれたのらしい(ドラフト外という名の自由競争制度)。その勇気ある決断と誠意に、球団も好待遇で応えた形なのだろう。

それにしても両球団を天秤にかけて、不人気ケチ球団の方を、あえて選択した若き日の高田投手には恐れいる。おそらく当時は現代よりもさらに色濃い「大巨人軍」時代のはずだったのだから。※参考:日めくりプロ野球10年2月


どうして平成26年にこのようなことを突然触れたのかというと、高田投手にまつわる“名エッセイ”と出合ったからである。短い文章の中で笑いあり、涙あり、感動あり‥‥。色々なものが詰まった、そのエッセイを読んで胸が熱くなった。

私は“書き手”とコンタクトを取ろうと思ったが、すでに掲載サイト自体が削除されており、叶わなかった。‥やはり、あれほどの名文を広大なネットの海の中で埋もらせておくのは大変にもったいないと感じ、記事URL記載の上で、全文を「原文ママ」でここに繋いで(掲載して)おこうと思う。

高田投手の球歴、知られざるエピソードを知ってもらう上でも良い機会だし、ハムやハマを愛する皆さまにも是非読んでいただきたい。


私の中学・高校時代は、プロ野球とともにあった。
きっかけこそ若いカッコイイ選手へのあこがれだったが、のめり込むに従い、渋いベテラン(しかも万年2軍のような)選手を応援し始めた。

私の性格はどうもマイナー志向らしく、女の子にキャーキャー言われるような人気の選手とか、少年ファンが憧れるようなスターとかには興味が沸かなかった。
「私が応援しなくなって、たくさんの人が応援してくれるじゃん」と思ってしまう。
逆に言えばヤキモチ焼きで、自分だけの選手でいてほしいのかもしれない。

さてさて、私の心に一番残っている選手は、高田博久という投手である。
大学、ノンプロを経て日本ハムにドラフト外入団し、さっぱり目が出ず自由契約(クビ)となり、横浜大洋の入団テストを受けて合格、背番号47。
当時確か30歳くらいだった。

横浜ファンだった私は、日本ハム時代の高田選手を全く知らず、横浜に移籍してからの彼をイースタンリーグ(2軍の試合)で初めて見て、驚いた。
1球1球に気合が入っているのだ。
高田選手はとても小柄。
サイドスロー(投げるとき腕を横から回す。ドッヂボールなんかでもそういう人いるでしょ。)で、投げる度に「うりゃ!」だか「えいっ!」だかわからないが、叫んでいるのである。
ああこういう人には頑張ってもらいたい、勝たせてあげたいなと思った。

事実、彼は2軍では良い成績を残していた。
イースタンリーグの最多勝投手になったくらいだから(つまり出場した試合も多く)、その後も何度か投げている彼を見た。
ひと言ふた言話しかけたこともあるが(今は知らないが、当時2軍は試合が終わるのを待っていれば、サインをもらったり差し入れを渡したりできた)、これが謙虚でめちゃめちゃいい人なのだ。
やっぱり選手が喜んでくれりゃあ、応援しがいがある。

ところが彼はほとんど1軍に上がれなかった。
やはりチャンスは若手に多く回ってくるのだろう。
日本ハム・横浜を通して1軍の公式戦で勝ったことがなく、いくら2軍で安定した成績を残していても、トシがトシだけに危ないかな…(解雇)と思っていた夏の終わり、彼はぽいっと1軍に上がり、なぜか記念すべき初勝利を挙げてしまった。

「宮城野原公園運動野球場」というヤボったい名前の地方球場での試合。
東京での試合中継はなく、高田投手が投げていたことを知ったのは夜のスポーツニュースだった。
その試合は乱打戦で、ベンチ入りした投手を使い尽くして延長戦に突入、もう駒が残っていないところで高田投手がマウンドに上がり、2イニングを抑えた後の13回裏、青山選手がサヨナラヒット…。

泣いた泣いた。高田投手も泣いた。
江尻監督も泣いた。もちろん私も泣いた。
「こんなところで勝てるとは思わなかった」と彼は言ったが、私としては「こんなところで勝つなよ…」という気もした。
中継もなければファンも少ない球場、おまけに翌日は新聞休刊日であった。
しかし彼にとってこの1勝は、最初で最後の白星になった。
翌年のオフには自由契約となり、引退してしまったからだ。
サヨナラヒットを打った青山選手は、現在横浜ベイスターズのコーチだ。
当時を思い出しては、「ありがとよアオヤマ」と思う。

さてその初勝利の半月後、私はある機会に恵まれて、横浜スタジアムのラジオ中継のブースに入ることができた。
試合開始前で、スタッフが中継の準備をしている。
若いお兄さん(ADかなんかだろう)が、「こんなものいる?」とくれたのが、空の大入り袋。
5枚ほどあったそれはいろいろな球場のものが混じっており、「へー、球場によって袋のサイズも違うのね」なんて手に取って眺めていたら、その中に「宮城野原公園運動野球場」の袋が!ぎゃーっ!!!

これをどうすべきか、どうすべきか…と考えた挙句、とりあえずご本人にサインを入れてもらおう、という結論に達した。
オフになり、球団グランドでの練習の後、接触に成功。
「これにサインして下さい」と大入袋を渡すと、高田投手はけげんな顔。
ふとひっくり返して「えーっ!」。
私はむふふである。どうだ驚いたかである。

その大入袋はしばらく私の宝物であったが、翌年、高田投手の目立った活躍がないままシーズンが終わろうとしていたため、「いかんいかん、こりゃ危険だ」と思った私は、結局彼にプレゼントしてしまった。
やっぱり本人にあげたい(…というほど大したものでもないが)と思ったのだ。
大入袋を渡したときから、彼に会ってはいない。
地元の空調設備会社に就職したという記事は読んだが、有名選手でもないから騒がれることもなく、普通のサラリーマンになっていることだろう。

あの大入袋はまだ彼の手元にあるだろうか。
◆ <やまらん1日エッセイの巻> より


どなたか知らないが、高田投手の記憶を呼び起させてくれてありがとうと云いたい。そして高田投手をこんなにも応援してくれてありがとう。最後に、このエッセイを通じて私たちにも共通していえるのは、「頑張っていれば誰かがみてくれている」 「真心は伝わる」 ‥そういったことだろうか。


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posted by 羽夢 at 00:01 | TrackBack(0) | FSコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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