尾崎行雄さんも今年亡くなられましたが、ともに1962年の東映球団初の日本一に貢献された土橋正幸さんも24日、77歳で旅立たれました。近ごろ姿を見かけないとは思っていましたけれど、まさか‥‥。今でも信じられない、いや、信じたくない気持ちでいっぱいです。
現役時代の雄姿を目にしたことはありませんが、球団の歴史を紐とけば、かならず投手部門のどこかには土橋さんの名前があり、偉大な選手であったことは以前から存じておりました。私がリアルタイムで土橋さんを目にする機会が訪れたのは、1992年のファイターズ監督就任時。
前年オフのテレビ番組(Fuji系珍プレー集)で、現在は芸能界から身を引いている司会のS氏から監督が決まったことを紹介され、照れ臭そうにしていたのを覚えています。柴田保光さんの好投により開幕戦で勝利を収めたときも涙をみせていましたっけ。
残念ながらその年の成績は振るいませんでした(5位)。後年になって知ったのですが、大沢啓二さんが著した「球道無頼」によると、一部の選手と確執などもあったそうです‥。そこに詳しい記述はなかったのですが、推測するに江戸っこ気質な土橋さんにやり方に、選手がついていけなかった‥または水に合わなかった‥そんな感じでしょうか。ただでさえ、一喝されればしょげてしまいそうな“おとなしめ”の選手が、当時はたくさんいましたからね。
その点、同じように強情でいてべらんめえ口調の親分は「アメとムチ」をうまく使い分けていたような気もしてきます。土橋さんは人柄とか采配云々よりも、あの頃のファイターズに、ただ“マッチ”しなかったということなのでしょう。ノリが良くて、受け流すのも得意としていそうな選手が多数在籍していたスワローズ監督時代との違いは、土橋さんも肌で感じ取っていたかもしれません。
土橋正幸さんについては別の機会に、またあらためて触れてみたいと考えております。とにかく今は悲しみにたえません‥。心よりご冥福をお祈りいたします。
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ラベル:土橋正幸