2013年06月20日

「18歳の剛球エース」

「怪童」尾崎行雄さんが今月13日、お亡くなりになりました...


様々な逸話は、私も書籍等で目にしたことがあります。まず最初に驚いたのは高校を2年で中退して、日本ハムの前身である東映フライヤーズに入団しているんですよね。‥中退してというか、球団が“中退させて”といった方が正しいでしょうか。当時はまだ自由競争の時代。現代でいうなら済美高に在学中の安楽智大投手を、強引に入団させてしまうようなイメージです。ドラフトが始まる前から頭文字「F」がつく球団の、新人選手獲得の際に起こすミラクルぶりは、健在だったのですねぇ(笑)

それでも18歳の“尾崎君”は新人年からプロでいきなり20勝をあげて新人王、チームの日本一にも貢献しています。なかなか当時の映像を確認する機会に恵まれないのですが、この頃の尾崎投手はひたすらストレートで押しまくる投球スタイルだったそうです。本当、どれだけの「豪速球」を投げていたのでしょう。今の大谷翔平を見ていても判るように、ただ“速い”だけではプロ打者相手にいとも簡単に弾き返されてしまいますからね。相当な“強さ”もあったはずです。

星野監督「めちゃくちゃ球が速かった」怪童・尾崎氏死去MSN産経ニュース


1年目の20勝を皮きりに、入団6年目までには104の勝ち星を積み上げ、その間放ったイニング数は、なんと1383回1/3。有名な「権藤、権藤、雨、権藤」なんて言葉もあるように、当時の野球界ではそれほど驚くべきことではないのかもしれませんが、現代野球では到底考えられないハイペースです。しかし、この登板過多が尾崎投手の選手寿命を縮めてしまったのもたしかなわけで、以後の成績がそれを如実に物語っています。


近年のように1週間に一度、せいぜい中4〜6日の登板間隔で回していたら、いったいどれほどの生涯成績を残されていたのでしょう。少なくとも29歳という若さで現役を退いてしまうこともなかったはずですし、球団名が日本ハムファイターズと変わってからも変わらず剛球を放っていた、30代の「怪童」がいたかもしれません。

こういった発想をしてはいけないのは重々承知の上で‥ですけれども、悲しいかな“記録マニア”の性です(苦笑)。でも、もっと映像技術が発達してからの、尾崎投手の雄姿を拝んでみたかったというのは、偽れざる心境ですかね...


ところで尾崎さんはフライヤーズ時代、背番号「19」を背負っていました。現在の19番・増井投手よりも速かったのしょうか?‥‥筆者はこの手の“妄想”が大好物です(笑)。球団史に名を刻んだ故人に敬意を表する意味で、次回は尾崎行雄さん以降の、Fs歴代背番号「19」を振り返ってみたいと思います。


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ラベル:尾崎行雄
posted by 羽夢 at 13:52| Comment(0) | TrackBack(0) | FS特別企画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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