巨人が日本一になるには第6戦までに、どうしても決めておかなければならなかった。7戦までもつれこんだら、指を骨折しながらもマウンドに立ち、勝ち投手にまでなったアノ男の出番がふたたび回ってくる。だからその前までに、どうしても決着をつけておく必要があった。
言うならば1998年に横浜が日本一の栄冠を手にしたときの戦い方。絶対的ストッパー・佐々木主浩が最後に控えて、あたり前のように最終回を締めくくる。相手からしてみたらあのころの対横浜戦に“9イニング目”はなく、実質8回までの勝負。圧倒的な数字もそうだが、当時の大魔神はそれくらいの存在感を放っていた。
日本シリーズの大舞台、最後にダルビッシュ有が待っているというのは、おそらくとてつもない“恐怖”や“重圧”を巨人側に与えていたことだろう。大魔神に匹敵する「存在感」が、あのときの“傷だらけのエース”にもあった。
『一世一代の投球』
本人がそう評していた。2009年11月1日、日本シリーズ第2戦。新聞報道などで登板が噂されていたので、ダルビッシュが先発すること自体にはさほど驚きは感じなかったが、投球する姿をみて驚愕した。素人目で見ても、明らかにいつもの投球フォームではない。一連の身体を沈み込こませる動作がなく、まるでキャッチボールでもしているかのような立ち投げ状態。臀部を痛めていたことから、下半身に負担をかけない投球フォームを、短期間で独自に開発していたのだ。
普段の7割程度(G・ラミレス談)だったという直球は、当然のように威力がない。このストレートを見せ球に、代わりに多投したのが縦に落ちる、緩いカーブ。中盤迎えたピンチで小笠原道大を三振に仕留めた球も、やはりカーブだった。のちに前年の日本シリーズで巨人打線を手玉に取った埼玉西武・岸孝之の組み立てを参考にしていたことを知る。
試合前は『ストライク入るかどうかも不安だった』というダルビッシュ。実戦から1ヶ月以上遠ざかっていたのにも関わらず6回を投げきって2失点。7安打を打たれはしたが、無四球。より制球を重視した結果だろう。故障を抱えたままで“病み上がり”という言葉は適切ではないかもしれないが、そんな状態でもチームのために腕を振った。
‥いや、チームのためだけではなかった。
お立ち台でダルビッシュは言う。
『大切なファンと、大切な家族、他のパ・リーグ5球団のファンの方の分までしっかり投げようと思いました』
けっきょく“第7戦目”、ダルビッシュのシリーズ2回目の登板の機会は訪れなかった。チームの日本一は逃したが「一個人」を思えば、あれはあれで良かったような気もしてくる。この年もWBCから始まって他の選手と比べると短いオフとなり、オールスターでは打球が腕に直撃する不運にも見舞われた。身体が悲鳴をあげていたのかもしれない。
ダルビッシュ有、当時23才。ここまで色々な経験を積んできたが、彼の野球人生にはまだ「続き」がある‥
≪続く≫
2012年01月07日
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