【大沢啓二氏、逝去‥】
体の具合がおもわしくないという噂は聞いていたが、つい先日まで
テレビ出演もこなされていただけに、突然の訃報にはただただ驚か
された。今年は球界関係者の訃報は多いが、またしても惜しい人を
亡くしてしまった。
大沢氏を語る上で絶対に切り離すことができないのは、ファイターズ。
今回はそんな大沢氏を偲んで、『日本ハムファイターズの大沢啓二』
親分への熱い想いを込めて、語らせていただきたい。
筆者が大沢氏を実際に目にしたのことがあるのはファイターズの
監督を務めていた第二次政権時代。それまでは映像のなかでしか、
見たことがなかった。
後楽園球場を本拠地としていた頃、男臭い個性派集団を率いて、
1981年に球団初のリーグ優勝に導く。北海道移転後、2006年の
日本一を目撃するまで優勝など、一度も目にしたことがなかった
私のような人間にとっては、まさに大沢氏は「伝説の人」。記者に
よる試合後の囲み取材では、タバコを美味しそうにふかしている
姿がとても印象的だった。
※1977年、ファイターズ監督時代の大沢氏。週刊ベースボール5/2号より


そして第二次政権時代。私は大沢氏の指揮ぶりをみてなるほど頷いた。
選手を「鼓舞」するなんて言葉をよく聞くが、大沢氏の場合そうではない。
云うならば選手達を「その気にさせる」のが、実に巧い監督だった。
就任前、最下位寸前だった前年5位のにチームに「お前たちの持っている
力は常勝・西武ライオンズと何ら変わりはない」と言い聞かせ、選手たちを
その気にさせる。その代表格はそれまで控え選手だった元気者の広瀬哲朗。
キャプテンに指名され、ポジションは当時チームの顔でもあった田中幸雄を
外野に追いやって遊撃に固定。「その気になった」広瀬は気迫のヘッドスライ
ディングでチームをグイグイけん引した。
この結果、無敵を誇っていたライオンズと実際に激しい優勝争いを繰り広げた。最終的には2位に終わったものの、私自身が「強いファイターズ」を目にしたのはこれが初めてで、現在でも忘れられないシーズンとなっている。
また試合後の「べらんめえ」な独特の大沢節は、毎回マスコミにも取りあげられ、注目された。大沢氏のことだ。今思えばあの少し過激なリップサービスは全国の野球ファンをファイターズに目を向けさせようという、計らいもあったのだろう。
期待された翌年はダントツの最下位。そしてファンの前で土下座‥。
これには賛否両論あったが、これもらしいといえばある意味「親分」らしく、
親分にしかにしかできない幕引きだった。
ファイターズ関連の書籍を読み漁っていると、監督を二期に渡って計11年も
務められただけあって、大沢氏の名前を度々見掛ける。なかでも印象深い
のはリリーフエース・江夏豊にまつわるエピソード。
「優勝請負人・江夏」を獲得するために、広島の松田オーナーの元へ直接出向き説得をした話は有名だが、私が感心したのは江夏退団時のエピソード。
34Sをあげて、セーブ王のタイトルを獲得した1983年。当然翌年もファイターズでプレーするものと思っていた江夏は、この年のオフにすでに退団が決まっていた監督ともども、大沢直々に退団を促されたのだという。
理由は『自分の意志で連れてきたのだから、自らがチームを去る時は一緒に‥』それと新しい首脳陣にその起用法などで気を遣わせたくなかった、というのが真相らしい。
見た目は豪快で激情家そのだったが、本当は人一倍人情があって繊細な気配りもできる‥ そんな誰よりも選手想いな指揮官にナインは付いていき、今でも多くの球界人に慕われている所以なのだろう。
その後は常務として球団に残り、ファイターズ・さらには球界のご意見番として、日本プロ野球界を見守り続けた大沢氏。天国では南海時代の師・鶴岡一人氏と心行くまで野球談議に花を咲かせていることだろう。
ご冥福を祈る。